映画 エリジウム

強固な秩序に抗う強化外骨格

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  近代性、合理性を視覚的に映し出したシステマティックなロボットたち。

 超富裕層の安逸な生活を支え、人口過剰や環境汚染問題に代表されるような、普遍的問題の解決を一部富裕層のみの救済に見出すデストピア世界。

 人間性、そして生命価値の軽視を助長する秩序が、強固な機械とシステムに支えられている。

 

 その秩序に抗いつつ、権力に踏みにじられた主人公がまとうのは、醜い強化外骨格。ガンと傷で弱り切った主人公が、近代的な剛力の一部をまとい、迫害者とロボットたちに立ち向かう。

 

 初めて治安維持機動部隊の一体を倒す瞬間、粉々にくだけ散るその外殻のスローモーションは、人間性と野蛮性が、近代の圧迫に反乱を起こす第一歩であった。

 

 しかし秩序の転換を試みる彼を脅かすもう一つの存在。それはもうひとりの反乱者分子であった。人間性や思想なしに、野蛮性だけで秩序の破壊を試みる暗殺者。彼らは時代を問わず、近代性と合理的秩序に抑圧されてきたもう一つの普遍的脅威である。

 

 安逸な富裕層と超近代兵器を身にまとう野蛮な反乱者の2つを、貧しい装備で打ち破る主人公の勇姿に心奪われる。革命が欺瞞に陥らぬためには、この2つ同時に打ち倒すべきであったのだ。

 

 彼は自らの命を犠牲に、強固な近代性が守るべきものを改変した。秩序は、システマティックなロボットたちは、全市民に開かれた。

 

 歴史は繰り返される。かのフランス革命や共産革命の失敗と同じく、人類が理想郷を築くのは遠い未来、もしくは永遠に訪れぬ未来かもしれない。しかし彼らの抗いと、被迫害者たちの嘆きと喜び、そして子供たちへの救いと親の愛は、たとえ一瞬あっても限りなく人類を輝かす。

 

『エリジウム』予告編

 

ジョン・キーツ つれなき美女

セイレンに魅了される詩人たち

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どうしたのだ、見事な鎧に身を固めた騎士よ、

  かくも独り寂しく蒼ざめてさまよっているのは?

 湖の菅(すげ)の葉は枯れ果て、

   もう鳥も鳴かなくなったというのに!

 

 どうしたのだ、見事な鎧に身を固めた騎士よ、

   そんなに憔悴し、悲しみに打ち拉がれているのは?

 栗鼠(りす)の穀倉には蓄えが満ち溢れ、

   収穫のときももう終わってしまったというのに!

 

 ゆりのように青白な君の顔は、

   苦悩と熱病のような汗で、じっとりと濡れている。

 薔薇色に輝いていたと思われる君の頬も、

   今は色褪せ、見る影もないではないか

 

 「私は緑の草地で一人の美女に出会った、

   その美しさは比類なく、そうだ、まさに妖精の娘といえた。

 その髪は長く垂れ、その足は軽やかで、

    その目は妖しげな光を湛えていた。

 

 私は花輪を編んで彼女の頭を飾ってやり、

    馥郁たる花の腕輪も腰帯も作ってやった。

 彼女は、私を恋しているかのように、

    私の眼をじっと見つめ、呻き声をあげた。

 

 私は彼女を馬に乗せて静かに駈けたが、

    終日私の眼には何も入らなかった、

 彼女が横ざまに腰をおろし、

    絶えず妖精の歌を口ずさんでいたからだ。

 

 彼女は甘い草の根や

    野生の蜜や甘露を探してくれ、

 異様な言葉で私に囁いた、

    『私は貴方を愛しています―心から』と。

 

  彼女は私を魔法の洞窟に連れてゆき、

    涙を流してはため息をついた。

 その怪しい光を湛えた眼を、

    閉ざしてやった、四度、接吻を繰り返しながら。

 

 やがて彼女は私を眠らせてくれた、

    私は夢を見た。だが、なんと悲しいことか、

 それがこの冷たい丘の中腹で見た

    最後の夢になってしまったのだ。

 

 夢の中には青白い王侯や武者たちが現れた、

    いずれも死人のように蒼ざめていた、

 そして、叫んでいた、『あのつれない美女が

    お前をとりこにしてしまったのだぞ!』と。

 

 暗がりの中に、死の形相もすさまじい彼らの唇が浮かび、

    大きく口を開いて凄惨な警告の叫びを上げていた。

 私は眠りから覚め、気がつくと、

    この冷たい丘の中腹にいるのが分かったのだ。

 

 私がこのあたりから去ろうとせず、

    一人寂しく蒼ざめてさ迷っているのはそのためなのだ、

 湖の菅の葉は枯れ果て、

    もう鳥も鳴かなくなってはいるのだが」

 

  (平井正穂編 『イギリス名詩選』

    岩波文庫 2004年第31刷 より抜粋)

 

 作中で「見事な鎧」に身を固めた騎士、knight-at-arms、が表すものとは読む人のそれぞれであろう。騎士からすぐに連想される強い道徳心や忠誠心でもいいだろうし、at-armsから直接的な強さや頑丈さととってもいいだろう。しかし各々が心の中で高尚とするものを彼の鎧に投影した時、「独り寂しく蒼ざめてさ迷っている」彼の背負った苦悩の深さが作品内からにじみ出る。
 

 彼と美女の出会い、そしてその後の自然風景の中で育まれるひとときの甘い時間は、妖しげな言葉たちとともにリズミカルに綴られる。しかし彼女が愛を囁く言葉は異様であり、その眼は怪しげな光を湛え、ついには彼を魔法の洞窟に誘う。彼が出会った美しい女とはセイレンだったのだ。 
 

 妖しくも魅惑的で、消え入るような弱さを見せるこのセイレンという存在は歴史と空間を超えて多くの作品の中に登場するが、その中でもダンテの『神曲』煉獄編で登場するセイレンはキーツの描くセイレンの姿と極めて類似した表現を与えられており、かつより直接的にその正体を描かれている。

 以下、河出文庫神曲』煉獄編 平川祐弘訳より。

その頃、私の夢の中に女が姿を現した。

 吃りで、やぶにらみで、足は曲がり、

 両手はともにもがれて無く、顔色は青ざめていた。

私がその女を見つめていると、ちょうど太陽が昇って

 夜中の重く冷え込んだ体を慰めてくれるように、

 私の視線が女の舌を緩めた。

たちまち女はすらりと

 立ち上がった。そして蒼ざめていた顔には

 恋する女のように、ほんのりと紅がさしそめた。

こうして舌が軽やかになった時、

 女は歌を歌いはじめたが、その声を聞くと

 気も心も吸いつけられ離れがたい思いだった。

 
「私は」と女が歌った、「歌い女のセイレン

 大海原の真只中で船乗りたちを迷わせてしまうほど

 美しい歌声に恵まれておりました。

この声でオデュッセウスを正道から

 誘きだしたのでございます。私のはたにいる者は皆

 恍惚として、滅多に立ち去る者もおりません」

 

 この後にダンテを導くヴェルギリウスが夢の中に現れてセイレンの服を引き裂き、その臭気によってダンテを我に帰らせる。

 「つれなき美女」と同じく、高みを目指す者たちをおとしめ、苦悩させるセイレン。このような描かれ方は、時代や作家によっては批判的に受け止められ、別の表現を与えられることもある。しかしセイレンが美しく、神秘的で、出会った者を魅了する事には違いはない。

 歴史と空間を超えて形を変えるこの象徴たちは、我々の思想や感受を投影する器であり、かつてより人々の心を震わせてきた一つの生命である。
 
 蒼ざめた騎士が目覚めた冷たい丘の中腹もまた、かつてダンテが深き森より、3匹の獣に阻まれて登ることのできなかった、あの丘なのだ。

 

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映画 麦の穂をゆらす風

理想と理性の悲しい対立

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 イギリスの支配に対して反乱を起こしたアイルランド人は多くの犠牲と苦難を乗り越え、不可能と言われた改革に成功する。

 しかしその条約は自国の完全なる自由、支配からの解放とは程遠いものだった。

 

 数々の苦難を奇跡的に乗り越え、やっとの思いで勝ち取った条約を守らんとする自由軍と、数々の苦難を奇跡的に乗り越え、多くの犠牲を払ったからこそ、真の自由を得るために戦わんとする共和軍。

 道は2つに1つしかなく、固く団結していたアイルランド人は分裂してしまう。

 

 客観的に、単なる歴史的傍観者の立場として観るならば、当時完全なる自由を勝ち取るのは極めて困難であったと思う。条約を守るために戦闘中止を叫ぶ自由軍は正しく、反対に共和軍は感情論に任せて今までの戦いを無駄にしようとしているように見えなくもない。

 しかし、戦いのために背反者の少年を涙ながらに処刑したり、拷問され、銃殺される運命の同胞を残しての脱獄をせざるを得なかった彼ら。

 反乱を通してあまりにも大きな犠牲を強いられた彼らの戦いを、計算と道理で終わらせることが絶対的な正解であり得ようか。

 

 イギリスからの解放のために乾いた功利主義に身を落とせば、我々も彼らと同じではないか。度重なる妥協を続けても、真の自由などないのではないか。こういった彼らの声を聞いていると、自由軍の重んじる理性にばかりに賛同することもできなくなる。

 

 理想のために戦う者と、現実を考えて戦いをやめる者、二つの理念を、ある絆の深い兄弟に託して描くこの作品。

 引き裂かれる兄弟の悲哀、そして彼らを包むアイルランドの美しい自然風景を通して普遍化されるこの作品のテーマは、我々の人生の随所にも見出しうる悩み深い二功対立である。


映画 「麦の穂をゆらす風」 (06 アイルランド英独伊西) 予告編

映画 ボーダーライン

麻薬世界にうごめく不気味な男たちとエミリー・ブラント

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  作中に何度も映る空中からの俯瞰映像。メキシコに広がる広大な山々や砂漠、延々と広がるアメリカ、メキシコ間の国境線、そして両国の街の風景。

 不気味なBGMとともに映されるその風景は、我々に客観的視野を与えるどころか、世界そのものが、実は我々の理解をはるかに超えた見慣れぬ場所であることを思わせる。

 その風景のどこかで、暴走する欲望と暴力が麻薬戦争という姿でうごめいている。

 

 いわゆる正義や法律を重んじる、エミリー・ブラント扮する主人公。秩序の守り手としてはっきりとした価値観の世界に住む彼女は、しかし遭遇する数々の残虐な暴力に無力感を感じ始める。

 そんなタイミングで上層部より事態のより真相に関わる任務を与えられた彼女は、麻薬世界のより暗部に足を踏み入れることになる。

 その世界には彼女の、そして我々観客の親しむ世界観などをあざ笑うかのような混沌が渦巻いていた。

 

 彼女が関わり始めた、野蛮で混沌とした世界に住み慣れた男達。彼らの行動原理を必死に理解しようにも、そこにはどこか不正と腐敗の気配が滲み出る。しかし彼らの持つあまりにも重たい存在感にはなぜだか魅せられてしまう。

 

 自分の置かれた状況を把握しきれない主人公と同様の目線で映画を鑑賞する我々にとって、世界の混沌の写し鏡のような謎の男たち、中でも「嘆きの検察官」、ベネチオ・デルトロ扮するアレハンドロの言動はあまりにも生々しく、記憶にこびりつく存在感を放っている。

 主人公に優しく寄り添いつつ、過去の苦悩を漏らす彼の姿に親しみを覚えたかと思えば、人間離れした蛮行を淡々とこなす。超人的な行動力を持ちつつ、あまりにも人間的な彼の動向は、本作品の最も大きな見どころの一つだろう。

  

 異なる陣営の暗殺者がうごめき、残虐に殺し合う人間たちの織りなすあまりにも複雑すぎる世界を主人公とともに追いつつ、絶望的なまでに暗い過去を清算しようとするあるシカリオの行動とその帰結を目撃させる本作。

 観客である私たち「文明人」が、そして主人公が、一瞬理解したかに思えた人物の行う非人道的な行動を我々はどう見るべきであろうか。


『ボーダーライン』予告

映画 海を飛ぶ夢

二つの魂が見た生と死とは?

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 若き日の情熱を愛と旅に託していた青年は、ある晴れた日の故郷の海である光景に目を奪われる。

 それは海岸で髪をなびかせながら、瞳を閉じて物思いに耽る美しい女である。

 その光景に心奪われた彼は、気づけば高い崖から大海に飛び込んでいたのであった。

 深みがあるかに見えた海は引き潮であった。

 海底に身を打った彼は、五体の自由を奪われた生活を20年以上も重ね、やがては死を望むことになる。

 

 尊厳死を求めて絶望の日々を過ごす主人公ではあるが、彼の苦悩や彼の思慮深い言葉や、彼の身体的拘束と反比例するかのような想像力と言葉の世界に、多くの人々が、そして何よりも女性達の愛が集まる。

 本作品の中では彼を愛した女性たちの中でも、特に4人の女性たちの心情が極めて繊細に描かれる。彼の母親的な存在である義姉のマヌエラと、彼の尊厳死の権利を求めて戦う人権団体のジュネ、そして愛を求めてやまない衝動的なロサ。そして進行性の若年性認知症や失明を有する絶望から、彼の苦悩を最も理解し、かつ彼の豊かな心的内情に共鳴する美しい弁護士ローザ。

 

 尊厳死を求めて戦う主人公に対して国の制度や宗教など多くの障壁が立ちはだかる。しかし何にもまして彼を苦しませるのは、愛ゆえに彼の死を許さぬ兄、そして死を望む彼に対して静かに悲しみ続ける高齢の父であったかもしれない。あるいは彼と共に戦った、思慮深く志の高い職員にすら隠された、彼の死の望みに対する本質的な無理解かもしれない。

 しかし彼が愛し、かつ彼を愛したローザが、ともに尊厳死を約束した後に打たれたある直感、死の直前で彼女を引き止めたある感覚こそ、最も彼を絶望させるものはなかったのではないだろうか。

 本作品の死生観、そして誰よりも互いを深く理解しあう主人公とローザにすら横たわる死生観の相克をこそ描いた点にこそ、この作品にどんな他作品にも超えられぬ特別な価値が与えられていると思う。

 

 主人公が絶望の中で、その美しい想像力を羽ばたかせて綴った美しい詩の数々。彼の豊かな過去の記憶や、孤独の中でひっそりと綴った美しい文章を掘り起こした彼女は珍しいほどに彼を動揺させる。それは彼が身体の麻痺に苦しむ日々に心の奥底に隠していた最も高貴な神殿であったのかもしれない。

 しかし互いの苦悩を共有することでそれらの文章を見つめ直した二人は、絶望の中で光を摘み取るように、ともに美しい詩の数々を作品として残そうと試みる。

 互いに隠し持った愛情を芽吹かせつつ、詩的な言葉を重ねて編集されたその詩集は、彼らにとっての生命そのものである。

 

 詩集の出版後に互いの尊厳死を約束したローザは一度都会に戻り、満ち足りた気持ちでその本の出版を果たす。

 しかしふとした瞬間、彼らの生命であるその本の製造過程を工場で目にした彼女は、唐突に喜びを見失い、我を失ったかのような空虚な顔つきになってしまう。

 その瞬間に彼女が見つめていたもの、それは機械的で殺伐とした過程を経て詩集が製造され続ける機械運動の光景であった。

 

 一方の主人公が尊厳死を求めて都会に向かう際に恍惚と見る光景は極めて対照的である。親に叱られる少女、手を取り合って走る若い男女、後尾する動物、農作業をする老婆、すっかり風化した十字架の像、自転車を走らす青年、森、空、そして機械的に回る風力発電の光景である。

 

 それぞれに死を覚悟した人間が見る二つの光景。その光景に果てしない絶望を見たローザは死を拒み、渾身的な夫にしがみつく。そして主人公をかつてなく絶望させたのである。

 

 それは曇りなく生命を見つめた時に我々が見いだす二つの景色ではないか。

 我々の肉体、そして生命というのは自然法則の派生であって、我々の死後に向かう場所は機械的な虚無の世界であると見るか、あるいはその虚無にすら見えかねない世界にこそ、生命の奇跡と美、そして畏敬を見るか、という二つの世界観。

 限りない絶望を負った主人公ではあるが、彼が死を覚悟した後に世界に見たものとはなんだったのであろうか。

 

 美しい光景と言葉を通して彼の死生観を静かに、しかし緻密に描いた本作品は我々に生と死を再び見つめさせるであろう。

 


The Sea Inside (Mar adentro) [Oscar's Best Foreign Movie]

映画 ロブスター

 ちょっと渋みのあるファンタジーが観たいときにいいかも

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 自己のアイデンティティーに戸惑い、何かしらの権力に抑圧された若者が、何がしかのきっかけで自分の類稀なる素養に気づき、革命なり、世界的陰謀との戦いなりを導く人物になるような作品。近年10代の観客を中心に人気な近未来のデストピアものやファンタジー世界で多く見られる設定である。

 

 特に目立つのは優生学的な価値観を持つ社会に各個人が分別され、個性なく平和を維持する世界や、一部の特権階級の搾取によって隷属状態になった大多数の人間が疲弊した日常に苦しむ世界である。

 

 エネルギー溢れる若者たちは、ある年齢を節目に社会から言われるのである。

「あなたは単なる社会のパーツですよ」、と。そういった社会に帰属意識を持てぬ若者のフラストレーションを消化(昇華)させるこのような作品群が人気なのは大いに頷ける。

 

 しかし社会の価値観に順応し、日々を必死に生きる「大人」たちもまた、人生の様々な節目で自分を取り囲む環境に疑問や違和感を感じる。とは言っても、弓を片手に革命を起こしたり、伝説的な血筋に基づく魔法の力で諸悪の根源と戦うエネルギーはもはや残っていない。

 そんな私たちにも卑近な人生経験を投影した何かしら味わい深い近未来ものの作品はないものか?

 

 そんな需要がもしあったら本作品『ロブスター』はオススメかもしれない。

 あるいは高校を卒業するまで散々社会的脅迫とともに、成績や受験に追われながらも、急にあまりにも大きすぎる自由を差し出される大学一年生あたりにも何かしらしっくりくるような気もする。

 サークルやゼミやアルバイトを通して、いかに自分が充実しているか、孤独でないかを強迫観念のようにアピールし続ける人々。あるいは学問なり趣味なり、己だけの価値観に基づいて自主独立を目指しながらも、時々日常的な人と人との交流を心の底から求めしまう人々。

 目に見えない巨大な二つの勢力が日々せめぎ合い、その外にはあまりにも呑気で無関心な中立地帯が広がる。そんな環境に少しでも違和感があるならば誰でもこの作品を堪能できると思う。


映画『ロブスター』予告編

魯迅『狂人日記』と『阿Q正伝』

近代の悩める自我について

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 三十年ぶりに月光を眺めてから、突然に病理を深めていくある被害妄想狂の日記を描いた『狂人日記』で、終始表現される食人に対する嫌悪と恐怖。

 近代に至り、生命が1つの権威や宗教と共に共同体の中に溶け込んでいた時代は去り、入り乱れる新旧の価値観の中で、各々が即席の自我の獲得を課されることとなった時代。

 圧倒的な善として世界を闊歩した啓蒙思想の助けもあってか、従来の価値観は審問に伏され、悪徳として否定されることも珍しくないこの時代に、王政やキリスト教、そして儒教もまた、徹底的な打撃を受けた。

 

 儒教的な価値観の弊害を食人として理解すればすっきりと読めるかもしれないこの作品は、しかし近代人が誰もが持つに至った不安定な自我への恐怖、つまり実存的な恐怖として読み解くことはできないか。

 

 後天的に時代や環境から付与された思想なり価値観なり信仰なり、その総合の上に成り立つ我々の自我。これを育んだ近代化という時代的変遷のなかで、それを我が血肉のように重んじ、はたまた我が血肉のように傷つけられ、奪われ、食われはしまいか?己もまた他人の血肉を食った上で成りたった存在ではなかったか?このような、己の存在の所在に惑い、己の存在意義そのものに突き刺さる恐怖を、「食人」という野蛮な言葉で表現したのではないか。

 

 また一方の『阿Q正伝』で描かれる阿Qの下劣で滑稽な生き様、それは即席で強い自我を背負わされた民衆に見る近代の殺伐と、その中でもがく人間たちの精神を描いたように思えてならない。

 それは肥大化した自我やプライドに見合わぬ卑小な存在である一個人の、弱肉強食世界での悲しくもあり、可笑しくもある闘争である。

 

 しかし民衆の不安定な自我の滑稽さ、あるいは恐怖を描きつつ、生命そのものに本来あるべき、畏敬に価する何かを描くこと、そしてそのような生命が時代に翻弄され、無残に散っていくことに対する怒りを表現することも魯迅は忘れてはいないように思われる。

 それは阿Qが処刑される寸前に突然鋭敏に知覚される本質的な恐怖と、まさしく奪われようとする生命の、あまりにも生々しい呻きの言葉である。

 

 最後の最後まで下劣で、間抜けであった阿Qの生命は、「にぶくて鋭い、彼のいったことをすぐに咀嚼しただけでなく、彼の肉体以外のものまでも咀嚼しようと、いつまでも彼のあとにくっついてくる」民衆の残酷な視線を前に自我を剥ぎ取られ、叫んだのだ。「助けてくれ、…」と。

 その瞬間こそ、彼はその場に居あわせたあらゆる人々の中で、誰よりも真に人間ではなかったか。

 

 狂人日記での食人への恐怖よろしく、霊魂までもが咀嚼される恐怖に見舞われた阿Q。その死には何の栄誉も、意義もなく、人々の好奇心をすら満足させることなく、惨めに散っていった。

 

 時代を問わず、常にどこかで、日々新たに発され続ける彼の呻きの言葉は、儚い自我の強化に執心する現代人に鋭く突き刺さる。