映画『カニバル』

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・あらすじ

優れた腕を持つ仕立屋として慎ましく生活する主人公。

彼は夜な夜な出かけては女性を殺して食べてしまう食人鬼であった。

ある日美しいルーマニア人に目を奪われた彼は、予想外の感情を経験する。

愛を知った食人鬼がのちにとった行動とは。

 

・野蛮性を全く感じさせない食人描写 

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 主人公には女性を殺した後に必ず訪れる山小屋がある。

 人間世界から隔絶した、雪の降り積もる山頂。何かしらの神聖な雰囲気の漂うその「高み」の場所で行われる解体作業。それはあまりにも静かに描かれる。

 そんな場所で丁寧に切り分けたお肉を自宅に保存し、さらに丁寧に調理したものを静かに食べる主人公。

 本来食人に感じるべき嫌悪感や恐怖が全く感じられない。

 

・なぜ食べてしまうのか

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 人間を食べてしまう狂気、いわゆる「カニバリズム」は意外と多くの映画作品で描かれている。ハンニバル・レクターのような悪魔的な存在として、あるいは『グリーン・インフェルノ』のような野蛮性として、あるいはあまりにも多くのホラー映画に出てくる性的倒錯者として、など様々である。

 本作品の主人公も性的倒錯者の部類に入れてみれば一風変わったホラー映画として楽しめないこともない。

 しかし主人公は優れた腕を持つ仕立屋さんとしてお偉いさんからのオファーも多い。質素ながらも極めて上品な生活を送る彼はルックスに関しても、アントニオ・デ・ラ・トーラ演じるかなりのいい男である。

 にもかかわらず彼は女性への愛を「食べること」でしか昇華できない。それは一体なぜなのか。

 

・作品内に漂う宗教色

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 主人公は聖母マリアの肖像を飾るマントを装飾する大仕事を任されていたり、教会の聖餐式(キリストの血肉をワインとパンとして食す)に出席していたり、仕事場でミサ曲を流していたりと、何かとキリスト教と関連した描写が多い。

 黙々と仕事をしては、質素で孤独な生活を続ける主人公の姿も、どこかしら修道僧や聖職者のように見えなくもない。

カトリック大国スペイン

 映画の舞台となっているスペインは、宗教改革以降もカトリックの守り手として強い宗教色の残る国である。カトリックの聖職者は一切の性行為を禁じられており、その愛はひたすらに神に捧げられるべきものとされる。

 どこかしら宗教的な存在感を放つ食人鬼の主人公の姿。それは、極めて高潔であり、尊厳深いながらも、どこかいびつさを感じさせるカトリックの厳しい教義と重なる(ような気もする)。

 そしてそんな彼の姿を通して、スペインの血塗られた宗教史が垣間見える(ような気もする)。

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・主人公が出会う二人の女性(以下ちょっとネタバレ+深読み) 

 劇中で主人公がとりわけ心を奪われる二人の女性。それは女優オリンピア・メリンテによって一人二役が演じられる双子の姉妹である。

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 妹のアレクサンドラは極めて奔放な女性であり、主人公にも積極的に接近してくる艶やかな女性。

 その妹を探してやってくる姉のニーナは慎ましく、家族思いの悩める女性である。 

・二人のマリア

 ところでキリスト教には同名であり全く異なった存在の二人の聖女がいる。それは聖母マリアマグダラのマリアである。

 一方はキリストの母であり、処女でありながら神を生んだ存在として「無原罪」の聖人とされる。

 他方のマグダラのマリアは(教義によって異なるが)娼婦としての過去を改悛して聖女となった存在として、神聖でありながらも「罪の女」と見なされることもある。 

 主人公を肉体的に欲し、積極的にアピールしてくるアレクサンドラは比較的早めに食べられてしまうが、主人公の孤独を癒し、母性的な愛で静かに慕い続けるニーナへの愛は、新たなる次元まで昇華されることになる。

 

・難しく考えなくてもいい映画

 作品全体を通して漂う、静かで神秘的な雰囲気や、何かもの言いたげな描写が多いためか、これは正座して見なければ、と言った感覚に襲われる本作品。それが原因か、評判に関して「よくわからない」、「退屈」と言った意見をよく耳にする。

 どこまでも深読みする要素があることは間違いないが、もっと気軽に見ても絶対に観て損はないと思う。

 「まともに見えて、実は人に言えないような狂気を秘めている人間 」という誰にでも通づるテーマを、静かに、そして美しく描く本作品。各々の隠し持つ狂気と照らし合わせながら、もっと多くの人に楽しんでもらいたい。

 

映画 ドリーム ホーム 99%を操る男たち

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「方舟に乗れるのは100人に1人だ。他は溺れ死ぬ。私は溺れない」

(劇中台詞より)

 

あらすじ 

サブプライムローンの返済不能により、自宅を差し押さえられた主人公ナッシュ。

彼は愛する息子や母のため、そして「家」を取り戻すために不動産ブローカー、カーバーの下で働くことになる。

自分たちを追い込んだ悪徳不動産業者、そして腐敗した行政システムを逆手に利用して大儲けをするナッシュ。

大金を稼ぐほど、彼の守ろうとした「家」、そして家族から遠のいていく彼はある決断をする。

 

・99パーセントから1パーセントへ 

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 圧倒的格差社会となってしまったアメリカに追い打ちをかけるようなリーマンショック。富めるものは政府から救済され、貧しいものは政府によってどんどん追い詰められる非人道的世界が舞台である。

 そんな悲劇を経験した多くのアメリカ人のうちの一人であった主人公のナッシュは、皮肉にもその才能を買われ、富めるものの側につく機会を得る。

 

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 政府や企業から搾取される側の痛み、とりわけ家族にとって最も神聖な「家」を奪われる痛みを生々しく描きながらも、反対に富める者たちのサバイバルや、彼らを突き動かす哲学、そして彼らに隠された恐怖をも描く本作品。

 名優マイケル・シャノン扮する不動産ブローカー、カーバーを恨みつつ、その力強い言葉に魅力され、共感させられていく主人公の姿を通して、暴走するアメリカの資本主義の根源を目撃させられる。

 

・成功の階段を登る主人公が犠牲にしたものとは

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 いわゆる勝ち組側についた主人公が成功していく影で、彼が踏みにじらなければならなかった多くの人々の嘆き。それはかつて主人公が搾取される側であった時の苦悩を蘇らせる。

 彼の行動によって直接一人の人間、そしてその家族が崩壊しようとする現場を目にすることになるナッシュ。その際に彼がとった行動とはどのようなものであったのか。

 精神なき合理主義、弱肉強食世界での勝利を選ぶか、それとも人間性を選ぶか。

 ラストシーンで、選択を行なった主人公を見つめるある存在。彼の視線が意味していたものとは何であったのだろうか。

 


映画『ドリーム ホーム 99%を操る男たち』

 

(資本主義関連で前回の『マイケルムーアの世界侵略のススメ』と共通するテーマがあったので以下思いつくままに)

・資本主義の圧倒的恩恵で育ったアメリカ 

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 かつて強い経済感覚を育持ちながらも、ヨーロッパにいどころのなかったピューリタン(イギリスのカルヴァン派)が多く渡ったアメリカはとりわけ資本主義に特化した経済を育ててきた。

 第一次世界大戦でヨーロッパが自己崩壊していく間に、彼らからどんどん富を絞り上げたことで世界一の経済大国になったアメリカにとって、資本主義は脅威ではなく、成長に不可欠な神聖な存在と見なされていた。

 

・「共産主義からの守り手」の誇りを崩さぬアメリカ

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 長きに渡る冷戦において資本主義の守り手として戦ったアメリカは、政府による国民への規制に対して桁違いのアレルギーがある。

 規制=共産主義、というロジックでいかなる改革も踏みにじることができる彼らにとって、福祉とは恥ずべきものであり、国民一人一人の自助努力こそ美徳とされてしまう。

 

 とはいっても彼らは一歩遅れて資本主義の恐さを学び始めてるのかもしれない。イラクへの介入やリーマンショックを経て疲弊し始めたアメリカでは、ブッシュ政権は恥辱と見なされ、キリスト教原理主義にすり寄って労働者を操った共和党はトランプによってめちゃくちゃに荒らされた。

 オバマケアなどの改革もあまりうまくいっていない上、新しい大統領を選んでいる真っ最中の彼らだが、資本主義への姿勢は確実に変わりつつある(と願いたい)。

 

・アメリカを笑っていられない日本

 驚きの速度で近代化を遂げた日本もまた、資本主義のもたらした世界的利権争いの渦中にあった国である。

 列強国の植民地支配に必死に抗い、第一次世界大戦においては戦勝国側となった日本は経済的に莫大な利益を得た。そして第二次大戦では大国アメリカと戦い、自国は焼土と変えされた上にあまりにも多くの人命を失った。

 資本主義の恩恵と恐ろしさを目にした日本。しかし戦後の新しい制度を作り上げていく過程で、凄まじい好景気、高度経済成長を迎えてしまった。

 資本主義は戦後、ひたすらに成長の要であり、その恐さはあまりフォーカスされないままになってしまったのかもしれない。

 

 他国とは全く異なる近代化を遂げた日本。その異形の成長形態にこそ日本独自の知恵と力強さがあったのは間違いない。

 しかし異形の近代国家日本の負の側面、戦後暴走している資本主義とどう向き合うかを考える機会がもっとあれば、最近物議を醸しているブラック企業問題のような暗いニュースは減っていたのかもしれない。

映画 マイケルムーアの世界侵略のススメ

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・あらすじ                                                                                                 

第二次世界大戦以降、なかなか戦争に勝てない割に軍事費がとてつもない額になっているアメリカ。

それならアメリカ軍に代わって私(マイケル・ムーア)が代わりに他国を侵略して、資源の代わりにいろんなアイディアを盗んできます。

そんな無理やりな設定で各国を訪れては、アメリカよりもはるかに恵まれた制度を次々と紹介していくドキュメンタリー作品。

 

マイケル・ムーアが盗んだ他国の制度(公式サイト情報+少しネタバレ)

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テロや移民問題、EU関連のニュースで何かと暗い話題が目立つ西欧諸国ではあるが、彼らが常識として享受している制度はすさまじいほど恵まれている。

アメリカ人の目を通してこれらの常識を改めて紹介されると、彼らの豊かな生活に羨ましさが止まらない。

(以下主要な紹介国)

・イタリア 年間有給8週間+祝祭日+毎日2時間の昼休み休憩+etc

・フランス 低予算なのにシェフ付きの高級学校給食

フィンランド 長時間の学習時間、宿題廃止+統一テストの廃止+世界でトップレベルの学力

・スロヴァニア(+20カ国以上) 大学の学費無料

 ・ドイツ 休日中の部下に上司が連絡を取るのは違法。終業後に部下にメールを送るのも禁止

 ・ポルトガル あらゆる麻薬の所持、使用を非犯罪化+麻薬使用率の激減

 ・ノルウェー ホテルみたいな刑務所+残虐な刑罰の一切を禁止+再犯率の激減。

 ・アイスランド 世界初の女性大統領を輩出+男女平等の徹底+

リーマンショック後に不正に関わった銀行家を全員収容+劇的経済復活

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 イタリアの年間8週間の有給+何かにつけてお休みがもらえまくる制度は別格だが、その他の紹介国も当たり前のように数週間分の有給が保証されている上、消化率は当然のようにほぼ100%である。

 医療や教育の無償化に代表される優れた福祉制度も当たり前の存在。職場のストレスや長時間労働も徹底的に規制する。

 

 彼らはなぜそこまで恵まれているのか。どうやってそんな制度を築き上げてきたのか。そんな疑問提示に応えるように、ヨーロッパの歴史や、これまで辿ってきた苦難の道のりをも紹介してくれる本作品。

 そこで繰り返し示されるのは、権力や体制といかに向き合うべきか、という問いと、マイケル・ムーアの十八番のテーマである資本主義の負の側面である。

 

・権力の恐さを知ってるヨーロッパ

 

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 かつて絶対王政と教会権力によって支配されていたヨーロッパ。1789年のフランス革命と共に多くの血を流して自由を勝ち取った彼らは、あらゆる権力が流動的で、常に監視していなければ暴走する存在であることを、痛いほど知っているのかもしれない。

 革命によって自ら近代世界、そして民主主義を勝ち取った彼らは常に体制を監視し、やたらに干渉する。

 大学の学費を取ろうとしたら各国でデモが起きる。強力な独裁者は一人の青年の自殺をきっかけに追放される。女性の地位を落とせば経済も崩落する。

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 常に権力と向き合い、試行錯誤を繰り返し、歴史を振り返る彼らだからこそ、労働環境や福祉の圧倒的恩恵を維持できるのかもしれない。

 お休みをもらいまくっているイタリアの年間の生産率は、フル稼働のアメリカ人や日本人の職場よりも高い。

 

・資本主義の恐さを知っているヨーロッパ

 

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 権力の恐さをさんざん学んだ彼らではあるが、近代と共にもたらされた資本主義経済との向き合い方を学ぶには多くの苦難があった。

 

 19世紀以降、西欧各国の強いナショナリズムの形成を促した資本主義は、資源や植民地などの利権をめぐって、世界中で血みどろの戦争を繰り返させる原動力であり続けた。

 そんな資本主義に反抗した人々は不安定な共産主義勢力を拡大させ、新たな独裁権力を誕生させる。

 そういった共産主義への反動で、今度は資本家に支持されたファシズムの暴力が吹き荒れる。

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 そんなむちゃくちゃな混乱の中で世界大恐慌が起こり、もはや暴走は極限レベルに達する。第一次世界大戦、そして第二次世界大戦である。

 ヨーロッパ全体が血にまみれた戦地となり、いくつもの村が壊滅し、莫大な数のマイノリティーが虐殺された。

 

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 そんな混沌を経験したヨーロッパは、資本主義の脅威を骨身にしみて学んだのだろう。

 今日でも企業の不正に厳しく目を光らせ、労働環境を徹底的に改善する彼らは、資本主義による利潤追求が人間の生命を脅かすことを決して許さない。

 

 そんなことを考えさせてくれる本作品。タイトルは少し過激だが、マイケルムーアの皮肉なユーモアを通じて世界を覗かせてくれる良質のドキュメンタリーである。


『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』予告編

イーライ・ロス監督 映画 ノック・ノック

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・あらすじ

 LAの郊外の高級住宅。家族4人とわざとらしいほど幸せに暮らす主人公の父。

 とある大雨の夜に訪ねてきた2人の美女を雨宿りさせた彼は一夜の快楽に身を堕としてしまう。

 翌朝起きると、一夜を共にした2人は豹変し、狂気に満ちた行動を繰り返し始める。

 彼女たちから逃れられぬ主人公はやがて破滅の道を辿っていく。

  

・残虐さだけじゃない、イーライ・ロス作品

 

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 毎回あまりにも残虐すぎる描写で世間を騒がせるイーライ・ロス監督ではあるが、巷に溢れるチープなエロ・グロ映画とは一線を画す作品を作る監督である。

 彼が毎回作品で描くのは、いわゆる「文明」側に属している(と思い込んでる)人間が、興味本位なり、若気の至りなりで「野生」の世界に入って生き、自分の価値観では全く追いつかぬ混沌に触れ、やがては…、という展開。

 本作も一夜の快楽に身を落とした彼は地獄を体験することになる。

 

・監督おなじみの世界観 

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 えげつない食人描写を描いた前作、『グリーンインフェルノ』でも、あまりにも過激な描写の数々に観客を限界状態に追い込みつつ、同時に観客に重要な問いを投げかけてくるイーライ・ロス

 人間と動物の境界性はどこか、真の環境保護意識とはどのようなものであるか、「文明人」こそ真に野蛮な存在ではないか。

 そんなことを考えさせては、観客側の「わかったつもり」をひっくり返すように、衝撃的な展開を持ってくる意地悪な手法は本作でも繰り返されることになる。

 そんなイーライ・ロスが今回描くのは、理想的男性像(?)キアヌリーブス扮する建築家が、夜な夜な訪ねてきた2人の美女にめちゃくちゃにされる話である。

 

・可愛いワンちゃんと戯れるキアヌ・リーブス

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 なぜか本作では、ワンちゃんと戯れるキアヌのシーンがアンバランスに多い。

 展開上特に意味はないのに映されるワンちゃんとキアヌのしつこい描写は、もしかしたら以前のキアヌ主演作『ジョン・ウィック』を文字っているのかもしれない。

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(過去の殺し屋稼業から足を洗った元一流ヒットマンのキアヌが、ワンちゃんを殺されたことで殺人マシンに戻るガンアクション)

 ワンちゃんについてはただの深読みかもしれないが、いたずら心溢れるイーライ・ロス監督の作品は、どんなに深刻なシーンでも常にどことないユーモアを感じさせてくれる描写を入れてくることが多い。そんなバランスもまた、彼の激しいエロ・グロ・ナンセンスな描写が苦手な観客を安心させてくるれるのかもしれない。

  

・野生、野蛮性と戯れる人間たちへの復讐

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 「物事は自分のデザインで決まる」と語る主人公は、建築家であり、「善き父」でもある。自他共に認める「いい人」の主人公は、なぜイーライ・ロスの残虐世界を経験しなければならなかったのか。

 注目したいのは、家中に飾られている妻の作品。妙に古代的、呪術的なモニュメントが多く、繰り返し映される。明らかに男性器を模したものや、かつて大地に豊穣を祈願する際に作られた女性像みたいなものもある。そんなアーティストの妻と深く愛し合っており、家族と怪物ごっこをしては、間抜けに戯れている描写も無駄に長い。

  彼にとって芸術的衝動世界や怪物性は、理性の下に管理されたものであり、鑑賞したり戯れたりする対象でしかなかったのかもしれない。

  そんな理性的な「善き父」が、大雨の夜に訪ねてくる美女二人に、その理性を揺さぶられる。そして管理していたかに思えた混沌や衝動世界をナメていた主人公は、その脅威を骨身に染みるまで体験することになる。

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 見方によっては「男性嫌悪」にも「女性蔑視」にも捉えられかねない本作ではあるが、要は自分の知らない世界、あるいは自分のナメてる世界に無理解なままで入って行くと恐ろしいことになる、そんなメッセージを体験できる作品であることは間違いない。

 映画作品の描く未知の世界を、画面を通して呑気に鑑賞できる観客。そんな観客の常識や「知っているつもり」な感覚を、過激な描写や一貫した疑問提示と共に揺さぶるイーライ・ロス監督。今後もぜひとも注目していきたい。

 

映画 神様メール

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・あらすじ

 ブリュッセルのアパートに住んでいる3人家族。いじわるなお父さんとおとなしいお母さんと暮らす娘のエア。

 自宅でパソコンをいじって暮らすわがままなお父さんは世界を作った神様だった。

 お父さんに嫌気がさしたエアは、神様の仕事道具にいたずらをして家出をする。

 エアのいたずらは、世界中の人間メールを送って余命をばらすことだった。

 余命を知った世界は大混乱に陥り、やがては…。

 

・意地悪な唯一神のパパ 

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 暇に任せて世界に天災や事故を起こしたり、ケラケラ笑いながら人間を悩ませる普遍法則を造るお父さん。彼は世界を創造した絶対神、いわゆる旧訳の神である。

 家父長制の主人として妻や娘に好き放題命令しては、ビールを飲みながらパソコンをいじって生活している唯一神の姿は宗教界、特にユダヤ教の人からかなり反発を受けるかもしれない。

 と言ってもリアリティはあるのにシュールでな現実描写や、常にコメディとして観客のツボを付いてくる本作品。宗教や人生、生と死と言った重たいテーマを扱っているにもかかわらず、常に観客を笑わせながら予測不可能な展開に持っていく本作のバランス感覚には脱帽するばかりである。

 

・野球好きのお兄ちゃんイエス・キリスト

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 意地悪なお父さんと3人で暮らしているエアではあったが、実は家出をした兄がいるらしい。しかもその兄はイエス・キリストであった。

 

 旧約聖書ユダヤ教にルーツを持つキリスト教。イエス自身ももとはユダヤ人であったが、ユダヤ教の厳格な戒律に異を唱え、新たな宗教を創造に至る。  

 そんな史実を意地悪なオヤジの家を飛び出たお兄さんとして描いている。

 彼はすでに人間界で磔刑にされてしまったものの、夜な夜なエアとフランクに喋っては、エアにアドバイスをくれたりする。

 

 ・終末思想と神様メール

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 そんなイエスが当時ラディカル提唱していたのは「この世の終わり」——終末思想である。

 現世的な繁栄を重んじる人々に対し、アンチテーゼとして「死」を想起させた彼の行動。それは娘のエアが人々に「余命」をバラしてしまう行動と非常に類似している。

 旧訳世界や現世的価値観に対する反動、それが本作品では、意地悪なお父さんに反抗した兄と妹として描かれている。

 

・少女エアの新・新訳聖書と六人の使徒たち

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 意地悪なお父さんに散々いじめられ、DVまでされたエアは家出を決意する。

 彼女はお兄ちゃんの集めた12人の使徒、+6人で、野球ができる18人になるという謎の目的意識を持って、人間世界で6人の使徒を探す。

 エアは人間それぞれの持つ「心の音楽」を聞き分けることができ、彼らに夢(就寝時の)を見せることができる。あと少し魔法的なものも使える。

 そんな能力と共に使徒を集め、新・新訳聖書創りに取り組む過程で出会う使徒たち。そして彼ら一人一人の人生や心の音楽に触れることになる。

 己の余命を知った人々、そして人々に「死」を想起させたことで変わりつつある世界秩序。そんな世界で描かれる6人の使徒たちそれぞれの説話が、示唆に富んでいると同時にあまりにもシュール過ぎて爆笑を誘う。

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一神教多神教

 古代、周辺民族の圧迫に喘ぐヘブライの民が、シナイ山でであった一人の神と契約を交わしてより、後に到来する西洋文明は従来の多神教的な呪術、祭祀を社会から遠ざけ、一人の神のもたらすテーゼをもとに合理主義の土壌を築き上げてきた。

 このキリスト教、そしてイスラム教の大元にあった旧約の神は、恐るべき復讐の神でもあった。

 

 ヘブライ人の長きに渡るエジプトでの隷属状態を終わらせるために、エジプト人に対して凄まじい災禍をもたらしたこの神は、自らに契約を誓ったヘブライ人のバール(土着的農耕神)への崇拝をも当然許さず、バール崇拝をした者を皆殺しにもしている。

 

 この、従来の多神教世界、土着信仰などを徹底的に抹殺する力強さを持ちながらも、どこか人間的な感情を覚えさせる神は、その姿を表現されずに伝承されてきたことで、より畏敬の念が増されてきたのかもしれない。

 本作品の意地悪なお父さんの描写は、どこかしら罪悪感を覚えつつ、不思議なリアリティがある。

 

 そのアンチテーゼとして「愛と許し」のキリスト教の誕生と、のちの西洋の教会権力の誕生をもって、西欧文明の歴史、文化、そして西欧人の精神はその圧倒的影響を受けて形成されている。

 しかしその大元には、一神教の始祖としてのユダヤ教のテーゼが色濃く繁栄されていることは間違いない。

 

 男性的一神教世界が抑圧した女性的多神教世界。そこから生まれた近現代社会や資本主義社会が行き詰まる昨今、どこかしら生きづらさを感じている人々は「死」を忘れ、現世的な責任やノルマに追われる。

 そんな厳しい世界で感受性豊かな少女が、宗教を、そして世界を変革しにこの世に降り立ったのである。

 

 復活した女神を前に世界はどう変わるのか。新たに訪れるシュールすぎる混沌とした世界に感動し、笑いつつ、「この世界ちょっとやばくね?」という予感が刺す。意地悪なお父さんは再び神の座に戻るために、洗濯機工場で扉を開けまくる。

 

 今年度で一番笑って、一番泣いた最高級の傑作である。

 


映画『神様メール』予告編

映画 善き人のためのソナタ

 

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・ヴィスラーの出会った二つの作品

東ドイツ国家保安省(シュタージ)の大尉ヴィスラー。 

彼が監視することになる劇作家ドライマンとその恋人マリア。

 彼らの情熱的な愛情の日々を盗聴するヴィスラーはやがて、自身の孤独な生活や、社会主義を利用して権力乱用を繰り返す高官、そして自身の乾いた精神を見つめるようになる。

 そんな彼を決定的に変えてしまう2つの作品。それはブレヒトの詩とベートーヴェンの旋律であった。

 

ベルトルト・ブレヒト 「マリー・Aの思い出」

 ある日孤独を癒すために娼婦と一夜を過ごした後、ドライマンの部屋にこっそり入ったヴィスラーは一冊の本を盗む。それはブレヒトの詩集であった。

(以下字幕より)

 

9月のブルームーンの夜

スモモの木陰で、青ざめた恋人を抱きしめる

彼女は美しい夢だ

真夏の青空に雲が浮かんでいる

天の高みにある白い雲

見上げると

もうそこにはなかった

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 スモモの木陰で抱きしめた青ざめた恋人とは、西洋文学に繰り返し出現するセイレンである。高みを目指すものをおとしめ、魅了する普遍的存在と、彼も出会ってしまったのだ。

 (以前セイレンについて書いたのでよければ読んでください)

 

 見上げた際にもう失われてしまった、「天の高みにある白い雲」。それは情熱を知り、孤独を知ったヴィスラーが失ってしまった社会主義への信仰であろう。

 

ベートーヴェン 「熱情ソナタ」 

そんな彼にさらなる情熱の息吹が降りかかる。

 それは政府に抑圧され、苦悩し、自殺した演出家が死の直前に送った、ベートーヴェンの情熱ソナタの楽譜である。

 友人の死を嘆き、静かにピアノを奏でるドライマン。彼はマリアに語る。

 

「レーニンは情熱ソナタを批判した。

これを聴くと革命が達成できない。

この曲を聴いた者は、

本気で聴いた者は、悪人になれない」

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 かつて人類に理想郷をもたらすために、強固な秩序を必要とした思想は、苦悩と喜びの旋律を恐れ、同時に魅せられていたのである。

 その旋律は理想郷を失った絶望と、微かに予感される希望を響かせてたように思えてならない。

 

・壁なき世界で

 東ドイツ崩壊後の世界で、社会主義への信奉を失った理性と、圧倒的自由を前に表現手段を失った情熱はどのように出会い、何を生み出したのだろうか。

自由とともに反抗すべき対象、そして自我を失った二つの魂。

資本主義の息吹の下、入り乱れる価値観に惑う芸術家は、かつて彼を監視し、やがては彼を守るようになった一人の人間を見出すのだ。

ラストシーンでのヴィスラーの微かな微笑みに涙が止まらない。

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小説 ジキル博士とハイド氏

各時代ごとに造られる怪物観

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 「怪物は境界線に存在する」という言葉がある。

 我々人間は完璧に境界を異にした存在に対しては、それがいかに恐ろしい存在であっても怪物という言葉は使わない。

 異質な存在であるにも関わらず、そこに人間的な何か、あるいはかつて人間であった時の何かを垣間見るからこそ、その存在は怪物なのである。

 

 『ジキル博士とハイド氏』のハイド氏の怪物性についての描写は沢山あるがその中でも最も興味を持った部分は作品のクライマックスでもあるジーキル博士の陳述書の中にあった文章で、善と悪について述べられたものである。

 ジーキルは後の研究で彼の考えを凌駕する人々の多元的人間観をも予感しつつ、人間が二元的な存在だという真理を悟る。

 

 その二元性には様々な解釈が可能である。そこには当時の関心を集めていた進化と退化、男性と女性、イギリスとアイルランドなど様々な問題を当てはめて読むことができるだろう。

 ここでは最も直接的な解釈、善悪の二元性として考えて見たい。

 

 善と悪を二分しようとした結果ハイド氏を生み、それについて「善と悪の二大領域が、大多数の人間よりもはるかに深い溝で仕切られる結果となった。」と語っている。

 つまりハイド氏は人格を分離した結果の純粋な悪の存在としての怪物なのである。

 

 純粋な悪といってしまうと境界線上にいる怪物というより、悪魔的な別次元のものと考えられるかもしれないが、この作品の中では「すべての人間は善と悪の混合体」であり「エドワード・ハイドのみは、全人類のなかでただひとり純粋な悪」なのである。

 だとすれば、ハイド氏に出会うものすべてが彼を奇形とみなし、嫌悪の情を起こさせる怪物的な存在であるのは、自分のなかにもその「悪」を持っているからだろう。

 

 その「悪」はヴィクトリア朝では特に嫌悪されていた快楽や野蛮性のような本能的な行動をさすのかもしれない。

 そう考えるとハイド氏の、絞首刑を免れるためにはジーキルに戻ったり、生への驚異的な執着を見せたり、といった行動はとても興味深い。

 そもそも人間の本能的なあらゆる行動は、自己保存と種族保存のために身体に備わった必要不可欠な感覚である。イギリスの発達した文明とキリスト教的価値観のもとで、それをどんなに悪と呼び捨てようと、それは否定しがたく誰もが持っている。

 

 そういった「悪」を当時のイギリスの社会秩序で抑圧することで、文明を維持するイギリス人の姿がジーキルなのであれば、生命に驚異的に執着するハイド氏の姿は、人間の抑圧された自然な機能の叫びであり、そういったものを怪物視する彼らこそが、他の文化圏の人々や人間以外の生命から見ればなにか不可解な生活を送る生物としての怪物といえなくもない。「善」の化身たるジーキルもまた、怪物なのである。

 

 放浪好きで都会を嫌ったスティーブンスンの描くハイド氏はある意味、我々も含めた文明に生きる人間の不可解な生活へのアンチテーゼとしても解釈できるのではないだろうか。