映画『沈黙』 個人主義に目覚める西欧 個人主義に苦しむ日本

 

 

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 神のあまりにも長く、不気味な沈黙。

 自らの信仰が信者を救うどころか、よりいっそう人々を苦しめ、無残にいたぶり殺されていく絶望を前に、究極の神の不在を経験した神父が見出したもの。それは果たして真の神だったのだろうか。

  私にはどうしてもそう思えない。

 そもそもそこに、「正解」など用意されていないであろう。

 しかし小説家遠藤周作によってほのかに描き出されていた“ある”テーマが、マーティン・スコセッシ監督による映像化の中で、より明確に、その正体を浮かび上がらせたように思えてならない。

 それは「自我」、「個人主義」である。

   

 

 自己の境遇を神と重ね合わせる主人公 

 

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 本作の主人公ロドリゲス。彼はキリスト教への迫害を強める、鎖国下の日本に上陸してからのあらゆる経験を、キリストの受難と重ね合わせる。弾圧下での信者たちの集い、弟子の裏切り、悲惨な尋問。それら経験する自分の中に、彼は神を見続けるのだ。

 

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 踏み絵(つまりは棄教)という自己自身にとっての究極の苦しみをもってしか、目の前に苦しむ人間を救えない状況。それは人間の罪を償うために自ら磔刑に処されたキリストと彼を、いよいよ強く重ね合わせる瞬間であった。

 そんな瞬間に、彼はあの「声」を聞くのだ。

 

 それは神の声だったのか。それとも神と自己を重ね合わせた、主人公ロドリゴの、内面からの声だったのか。私は後者であるように思えてならない。

 近代人が神を否定し、己の自我を神格化していったように。

 

自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、

最も聖(きよ)らかと信じたもの、

最も人間の理想と夢に満たされたものを踏む。

 

この足の痛み。

 

その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。

 

ー原作『沈黙』より

 

「あの人」、それは神に代わって目覚めつつあった彼の「自我」ではなかったか。

 

日本人には重すぎた「神」、あるいは「自我」

 

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  一神教の教えと数千年をも共にした西欧人。ましてやその宗教の厳しい教義に身を捧げたカトリック司祭である主人公。

 そんな彼が迫害の中で一人、「神」の声を聞いたのに対し、八百万の神と豊かな自然に囲まれてきた日本人にとって、一神教の神の観念はあまりに新しく、また分裂と苦痛をもたらすものであった。

 伝統と慣習の中で集団的な生活をしていた人々が、突如「個人的」魂の所有とその来世的救済の教えに触れたことで生まれた不思議な信仰心。

 集団的な空間に突如出現した「個人」の概念。それは江戸の権力からの迫害に抗うことで、ますます強まっていく。

 しかし彼らの信奉する宗教は、西洋人の目から見て時に滑稽で、時に奇妙にすら映る。


 そしてその最たる例と言える存在こそ、本作の第二の主人公とも言える、キチジロウである。

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 主人公を裏切り続けながらも、最後の最後まで主人公に執着し、懺悔を求め続けるキチジロウ。

 彼の滑稽に見えざるを得ない生き様、繰り返される裏切りと許しへの渇望によって垣間見える、悲しい信仰の姿。それは日本における「個人主義」の根付き難たさを、身をもって体現している存在とは言えないだろうか。

 

 野に放たれる、未熟な「個人」たち

 

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 キリスト教によって突如与えられた、個人的魂の所有、そしてその魂の救済の教えに触れてしまったキチジロウ。彼の未発達な個人主義のもたらす混乱と悲しみは、日本人にとってそう想像し難いものではないのように思える。

 

 自然から切り離され、伝統から切り離され、しかし各々が孤独な現実主義の中で競争の中に投げ込まれる。そんな近代世界が、西欧主導で世界に広がっていった。

 しかしそんな世界で我々が頼りとする「自己」の根源を探ろうにも、その存在を支える「神」は、遠い異国からやってきた見慣れぬ存在である。

 

 近代的な孤独の中で日本人の「自己」を確立させたものは、あくまで「集団」であり、「お上」であり続けたのだ。

 江戸時代後期より、近代的法治国家を目指そうにも、その背景に「神」があった西欧に追いつくために、多くの辛酸を舐めなければならなかったことは、歴史の証明するところである。

 

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 本作で江戸の権力が手懐けたかに見える神父たち。しかし彼らは独自の姿をとって日本文化と混ざり合い、この国の文化を決定的に変えてしまったのかもしれない。

 

 

映画『私はダニエルブレイク』

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あらすじ

イギリス北東部ニューカッスルで大工として働く59歳のダニエルブレイクは、心臓病を患い医者から仕事を止められる。国の援助を受けようとするが、複雑な制度が立ちふさがり、必要な援助を受けることができない。

悪戦苦闘するダニエルだったが、シングルマザーのケイティと二人の子供をの家族を助けたことから、交流が生まれる。

貧しい中でも、寄り添いあい絆を深めていくダニエルとケイティたち。しかし、厳しい現実が彼らを次第に追い詰めていく。

 

—公式サイトより

 

 ダースベイダー or アンチダースベイダー

 

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 政治的なテーマを取り扱った映画作品は大抵2種類に分けられる。

 ダースベイダー的な作品と、アンチ・ダースベイダー的な作品である。

 

 近代的合理主義をひたすら肯定し、秩序を乱す集団を悪として、それと戦う主人公を「正義」とするような作品はダースベイダー的と言えるだろう。

 民主主義が理想に満ちていた時代や、北欧諸国のように、「制度」そのものが優れた世界においては、ダースベイダー的な作品ほど、感情移入して見られるものはない。

 

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 反対に、生命への畏敬の念、そして個人の尊厳や、当たり前の幸福を肯定し、それを脅かす「制度」と戦い続ける人間を描く作品はルークスカイウォーカー的、つまりはアンチ・ダースベイダー的な作品と言える。

 ケン・ローチ監督の面白いところは、彼は完璧にアンチ・ダースベイダー的な映画を撮り続けていながらも、ルークスカイウォーカー的な理想に隠された闇も包み隠さずさらけ出すところだ。

 

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 人間の卑小さ、ずるさ、制度なきところに存在する血縁的な闘争、保守化せざるを得ない善人、…。

 「エリックを探して」や「天使の分け前」など、人間のダメさ、だらしなさを暖かい目線で見守りつつ、ダースベイダー的な存在に一泡ふかせるコメディは、個人的に大好物である。

 

 元も子もないことを言ってしまえば、ケン・ローチ監督は、ルークとダースベイダーのように簡単には、世の問題を二極化できないことを教えてくれるのだ。

 

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 しかしそんな彼が極めてアンチ・ダースベイダー的な映画を撮るとき、しかも引退宣言を撤回してまで、現代を取り扱った殺伐とした作品を撮るとき、改めて現代の制度に、なにか切迫した不安を抱かされる。

 

精神を失き「制度」の再来

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 国家行政の極度な民営化により、人間の当たり前の権利すら営利追求と乾いた制度によって拒まれる。

 そんな中でひとり尊厳を守り、貧しい隣人たちを助ける善人が戦い、打ちのめされていく過程を描く本作。

 監督であるケンローチは常に、近代的、功利主義的価値観によって、人間性が破壊されつつある中で、形骸化した「功利主義」に戦いを挑む市民たちを描き続けてきた。

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 そんな彼らが人間らしい当たり前の生活を求めるとき、常に彼らの前に立ちはだかる近代的な「制度」。

 その制度が、現代に至って、より一層、冷たく、形骸化した、善意のかけらすらない存在になっていることが、1時間40分にわたってあまりにも現実的に見せつけられるのが本作である。

 

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 日常生活の中に潜むささやかな善意、愛情、共感を繊細に描き続けてきたケンローチ。

 本作でもそれらは余すことなく、感動的に描かれるも、その感動にはくらい影が落とされることになる。

 

 スカイウォーカーはいずこに消えてしまったのか。

 

 

映画『この世界の片隅に』 スズさんの右手

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 この作品を観初めて数分間、正直私は気分がよくなかった。

 戦中の日本の過酷な生活、男女差別、不気味な戦争経済が広がっているにもかかわらず、その風景が、あまりにものどかで、都合よく加工されたものに思えてしまった。

 「常にボーっと」している可愛らしいヒロイン、スズさんを通して、それらすべてが、美化されているように思えのだ。

 

 しかしスズさんが右手とともに大切なものを失った時、今までみずみずしく描かれていた日本の風景が、今まで通りのタッチで描写されているにもかかわらず、堪え難い悲しみに満たされていく。

 その時初めて気づくことができた。美化されているかに見えた戦中ののどかな日本の風景は、彼女の想像力によって、そしてその感受性をそのままキャンバスに刻みつけた、あの右手によって担われていたことを。

 

 大切なものを失った彼女が、その想像を絶する苦痛を乗り越えた時、再び見えてくるケモノたち、新しい命、新しい世界。

 彼女の想像力によって、失われた広島の光景すら、色彩豊かに復活する。

 

 苦痛と混乱に満ちた戦後の日本を建て直した人々の中に、スズさんのような魂があったことを思うと、涙が止まらない。

 失われた右手も、また手を振り返してくれるのだ。

絵画 『羊の剪毛』

 

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 上野にある国立西洋美術館に一点、心惹かれてならない作品がある。

 常設点も終わりに近い近現代美術の作品群の手前。暖色に照らされた、19–20世紀の美術作品を並べる部屋の中に、その作品はある。

 

  『羊の剪毛』と銘打たれたその作品は、同じ空間に並ぶエキゾチックな文化風景や、ダイナミックに自然を描いた神話的な作品群と違い、農民の日常を切り取った、とり分けて静かで、地味な作品である。

 しかしその絵画を一目見たときから、その平和な風景からにじみでる慈しみ深さ、行ったこともない風景に対する懐かしさとでも言えばよいのだろうか。なんとも言えぬ説明し難い魅力に心掴まれてしまったのを覚えている。

 

 ひときわ存在感を持って描かれる角ばった石柱、その石柱に支えられた大きな屋根によって、絵画全体は薄暗く、単調な色彩である。

 

 柱に寄りかかり、身を起こしたままやや力強く羊を抱く夫とは異なり、羊をあやすように地べたに座り、優しさに満ちた表情で羊を見下ろす妻は、単調な色彩の空間の中では特に目を惹かれる、真っ赤なバンダナを巻いている。

 

 愛らしく傾けられたその顔の左半分は、外からの陽光によって、その微笑みの柔和さがよりはっきりと照らし出される。

 この絵画に最初に魅了されたのも、この農婦の、あまりにも美しい表情だった。

 

 毛を刈られる羊たちは反抗することもなく穏やかに、その身を人間に委ねている。

 地平線の浮かぶ外界の風景と羊たちは、絵画全体を覆う大きな屋根と柵によって隔てられているも、何匹かの羊たちはねだるように屋根下の夫妻を見つめる 。

 他の羊たちも奥にあるもう一つの屋根を支える石柱の下に群がっている。

 

 鮮やかな陽光に照らされた、色彩豊かな大自然が描かれているにもかかわらず、単調でほの暗い、人工的な空間こそが、より美しく、平和な風景に見える。

 そして人工的な空間の魅力の大部分は、作品中心に座りこんだ、赤いバンダナの女の所作と表情によって担われているように思えてならない。

 

 宗教的モチーフも当然あるであろう本作品であるが、絵画を読み取る知的な楽しみ方を差し置いてでも、情緒において真っ先に見るものを掴む。

 神でも自然でもなく、人間中心の殺伐とした近代世界の暗さ、単調さを視覚的に見せられながらも、その空間に存在するひそやかな平和、生への慈しみ、その生命の美しさそのものを、赤いバンダナの女に教えさとされているようだ。

 

ジブリ作品『もののけ姫』 「祟り神」が象徴するものとは

 

ジブリ作品とドロドロの怪物たち

 

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 宮崎駿作品にはしばしば、ドロドロした気味の悪い怪物が現れる。

 『風の谷のナウシカ』の巨神兵や『千と千尋の神隠し』の暴走するカオナシなど、挙げればきりがないが、核兵器の脅威や巨大化し続ける胃袋(欲望)など、いずれの存在も必ず何かしらの象徴を背負わされている。

 

 そんなドロドロの怪物の中でも個人的に最も戦慄を覚えたのは『もののけ姫』の「祟り神」である。

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 全身を気持ち悪い触手に包まれ、その存在に触れた草木は腐り、凄まじい執着で人間に迫り来る祟り神。

 その存在が象徴するものは何なのか、宮崎駿の近代化への目線を含め考えてみたい。

 

 

もののけ姫』のたたら場が象徴するものとは

 

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 まず、もののけ姫で登場する「たたら場」という場所。そこは戦乱の時代に強固な城壁と最先端の技術を有する平和的な都市世界である。

 従来の伝統に縛られず、先端技術をもって他国を圧倒し、女性、病人、奴隷、弱者を保護するこの都市の長、「エボシ」は近代精神そのものの化身である。

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 しかし近代化に必要不可欠な存在である資源を惜しげもなく消費し、それを邪魔する存在は人間であろうと神であろうと容赦ない彼女は、過激な暴力を持って多くの存在を傷つてけているのも事実である。

 エボシ率いる「タタラ場」という場所、それは急速な近代化を遂げた日本、とりわけ戦後の高度経済成長期の東京であるように思えてならない。 

 

 明治以降急激な近代化を進め、西欧諸国に追いつけ、追い越せで発展を続けた日本は、人間/自然、近代/伝統、都市/地方など様々な対立を作り出した。

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 他国の武将達に「鉄」を売ることで富を築き、発展する「たたらば」は、戦後、大量の武器や物資を輸出することで特需を得た日本の姿と重なる。

 そしてそんな急速な近代化の陰で、搾取され、踏みにじられ、忘却された存在たちは、不気味な姿をとって近代世界に復讐を試みるのだ。

 
祟り神と「公害」

 

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 昭和30年代を懐かしむ人たちが日本にはいます。つまり50年代から60年代にかけてですね。

 その時期は良かったんじゃないかと錯覚を起こしている人たちがいます。けれども、非常に不幸な時代でした。

 非常に鬱屈した欲求不満が、その後の凶暴な公害をもたらすんです。

 日本中の海や川を汚し、山を削り、ゴミだらけにし、

 こんなに凶暴になることはかつて日本にはなかったことですから。

 それまでの懐かしいと言われている時代の中に、それだけの欲求不満が渦巻いていたんです。

 

podcastジブリ汗まみれ』宮崎駿インタビューより

 

 未曾有のスピードで発展し続けた「東京」の発展の陰で、日本は深刻な環境問題に直面する。

 「公害」と呼ばれたその環境汚染は、東京ではなく、その発展の恩恵を享受しきれていない田舎町や地方が、多くその代償を払わされてきた。

 

 作品冒頭で現れる祟り神は、自身に鉄の鉛を埋め込んだエボシの住むタタラ場ではなく、そこから遠く離れたアシタカの村(現在の東北のあたり)を襲う。

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 人間と共存し、敬われ、畏れられていた自然は、人間が長きにわたって崇拝してきた神々であった。

 神聖であったはずの存在が、怒り、苦しみ、奇形化し、「祟り神」となって襲い来る姿は、汚染された自然環境が「公害」となって人間に牙を剥く姿と重なる。

 ヘドロのような気持ち悪い色の触手を身にまとい、凄まじい執着で人間を襲う「祟り神」。それは「水俣病」であり、「四日市ぜんそく」であり、現在では…、果たしてどんな姿をとっているのだろうか。

 

映画『ミッドナイト・スペシャル』 

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あらすじ

ロイの幼い息子アルトンに備わった不思議な力。その神秘的な能力を狙って、カルト教団の魔の手が忍び寄る。追われる父と子は夜を徹して逃亡するが、追跡に国家権力がからみ、全国規模の指名手配へとエスカレートしていく。ロイは全てを犠牲にして、アルトンが究極の目標にたどり着くのを助ける決意をする……たとえそれが、何を意味するにせよ。

warnerbros.co.jpより

 

 

大人たちから見た「子供」の神聖

 

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本作には個人的な思いも反映されている。幼い息子を持つ親の気持ちだ。

脚本執筆中、当時1歳だった息子が熱性の痙攣を起こした。

その時悟ったんだ。“この子はこれからもケガしたり苦しんだりするだろう。そんな時私は同じ苦痛を味わうことができない。” 

“別の世界からこちらを見ることができても、こちらからその世界を見ることはできない”

ー『ミッドナイト・スペシャル』特典映像より

 

 本作では、前半部の重厚でリアルなトーンから一変して、「超人的な」能力を持つ息子アルヴィンが光ったり、物を破壊したりし始める。

 そこで展開される息子アルヴィンの「特殊」能力。それはジェフ・ニコルズ監督が幼い子供たちに見る「理解しがたさ」であり、同時に「神聖」そのものである。

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 しかし急に息子のアルヴィンが異様な姿で暴れ始めるのを見て、本作が何を言いたいのか見失う観客も多いかもしれない。

 そんな時にヒントになる存在が、最近注目を集める俳優、アダム・ドライバーである。

  

売れっ子アダム・ドライバーの大活躍

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 本作で、NSA職員を演じるアダム・ドライバー。

 彼は『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015)で中二病的なキャラのカイロ・レンを演じて一躍有名となったばかりである。

   しかし急に売れっ子になった彼が次々に出演する作品には、どうも一種の共通性があるように思えてならない。

 

 つい最近では、『ハングリー・ハーツ』(2016)に出演。育児方針を巡って血みどろの夫婦喧嘩を重ねる夫を演じ、ヴェネツィア国際映画祭主演男優賞を受賞した。

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 生まれてきた息子を「インディゴ・チャイルド」(使命を持つ魂)と信じ、独自の方針で育てようとする妻を深く愛しながらも、現代医学に則って健康に育てたい夫の混乱を演じている。

 理想と理性の間で引き裂かれる夫を演じる彼は、本作では政府側の人間としてアルヴィンを追い詰めながらも、アルヴィンの神秘的な能力に魅了されていく人物である。

 

 考えてみれば『スターウォーズ』におけるカイロ・レンも、帝国軍(の残党)に属していながらも、反乱軍の英雄を両親に持ち、ジェダイの教える理想や、両親への愛を捨てきれぬキャラクターである。

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 自由と秩序、理性と理想、そして現実世界と神秘的世界の対立を演じ続けるアダム・ドライバー。

    そんな彼の出演作品と重ねて本作を見ると、アルヴィンの特殊能力を前にした彼の行動も、より味わい深いものがあるかもしれない。

 

ピクサー作品『ウォーリー』 管理社会へのブラックで優しいメッセージ

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 あらすじ

29世紀の地球。700年もの間、たった独りでゴミ処理を続けているロボット【ウォーリー】。彼の夢は、いつか誰かと、手をつなぐこと。ある日、そんなウォーリーの前に、真っ白に輝くロボット【イヴ】が現れる。一目惚れしてしまったウォーリーが、イヴに大切な宝物“植物”を見せると、思いがけない事態が!イヴはそれを体内に取り込み、宇宙船に回収されてしまう。イヴを失いたくない!必死に宇宙船にしがみついたウォーリーは、大気圏外へ飛び出して…。宇宙の遥か彼方でウォーリーを待ち受けていたのは、地球の未来が懸かった壮大な冒険だった!
ー公式サイトより

 

 

安全で快適な管理社会(以下全体的にややネタバレ)

 

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 かつて人類の発展を支えた合理主義は、今や鋼鉄のような制度となって確立し、逆に人間を全面的に拘束し支配するにいたった。

 合理主義は、いわば非合理そのものに転落してしまった。

マックス・ウェーバー(意訳)

 

 環境汚染によって地球に住めなくなった人間たち。彼らは700年前に出航した豪華宇宙客船、アクシオムのなかで安全で快適に、しかし徹底的に管理された生活を送っている。

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 贅沢な生活の全てをロボットにお任せする生活は一見豊かで羨ましいものに見える。
 しかし彼らの生活というと、食って寝て、一日中イスの上でスクリーンをいじくるだけである。
 彼らは赤ちゃんのように無知で、個性のない生活を送っている。

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禁断の果実

 

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I don't want to survive! I wanna live!

ー映画字幕より


 安全世界にうたた寝していた人間たちを荒廃した地球に戻すきっかけとなるのは、探索ロボットエヴァが探し求め、ウォーリーが発見した植物である。


 船の全システムを管理するプログラム、「オート」は植物による船のリプログラミングと、地球への帰還を断固阻止しようとする。

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 オートは船内の全システムを人間に代わって管理し、反抗者や危険分子には容赦がない恐ろしい存在として描かれる。

 ウォーリーがきっかけで地球の環境を学び始めた船長ですらも、自分たちが管理され、ただ生かされていたことに気づくが、オートによって監禁されてしまう。

 

 ここで示される「地球」という場所は人間たちにとって快適さと安全さを失う「失楽園」でもある。

 しかし船内の空虚な生活にはない「何か」。それを彼らは求めずにはいられなくなる。

 

秩序への反抗

 

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 そんなオートの圧力に対して、ウォーリーたちを応援し、助けてくれる存在が2つある。客船に紛れ込んだウォーリーのドタバタによって、偶然液晶画面から目を離し、初めて世界を目にした人間と、

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 故障によって隔離、監禁されたロボットたちである。

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  どちらの描写もコミカルで可愛く描かれるものの、管理社会の下で空疎な生活を送る人間や、秩序にそぐわないはぐれもの達への容赦ない運命がブラックに描かれる。

 ウォーリーによって新しい世界に目覚めた彼らは、力強い味方になる。

 

地球への帰還と失楽園

 

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 空疎で安全な生活を捨て、念願叶って地球に降り立った人間たち。
彼らは管理社会から解放されたものの、これからは汚染された地球の厳しい環境の中で生きていかなければならない。
 彼らもまた、かつてアダムとイブが知性に目覚めて楽園を追放されたように、苦難に満ちた生活が待っていることだろう。

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ピクサーのブラックなメッセージ

 

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 しかし汚染された地球で、ロボットと人間が協力しあって暮らす様子はハッピーエンド以外の何物でもない。その風景はとても美しく、可愛らしく描かれるのみである。

 そんなあまりにも平和すぎる人間たちの描写に、少し違和感を感じる観客も多いかもしれない。

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 そんな観客に対して、エンドロール後の最後の最後のシーンで、これでもかと言わんばかりの毒っ気を効かせた“ある”シーンが映される。

 苦味のないハッピーエンドを楽しんだ人ほど、最後の最後で痛烈な皮肉をぶつけられるという少し意地悪な展開である。

 

 それでもやはり、本作が優しさに満ちた作品であることには間違いない。

 荒廃した世界で独り、希望を探し続ける旧式ロボットと、管理社会の下で自由を求める新型ロボットが出会い、世界に変化をもたらす愛の物語である。 

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