ジョン・キーツ つれなき美女

セイレンに魅了される詩人たち

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どうしたのだ、見事な鎧に身を固めた騎士よ、

  かくも独り寂しく蒼ざめてさまよっているのは?

 湖の菅(すげ)の葉は枯れ果て、

   もう鳥も鳴かなくなったというのに!

 

 どうしたのだ、見事な鎧に身を固めた騎士よ、

   そんなに憔悴し、悲しみに打ち拉がれているのは?

 栗鼠(りす)の穀倉には蓄えが満ち溢れ、

   収穫のときももう終わってしまったというのに!

 

 ゆりのように青白な君の顔は、

   苦悩と熱病のような汗で、じっとりと濡れている。

 薔薇色に輝いていたと思われる君の頬も、

   今は色褪せ、見る影もないではないか

 

 「私は緑の草地で一人の美女に出会った、

   その美しさは比類なく、そうだ、まさに妖精の娘といえた。

 その髪は長く垂れ、その足は軽やかで、

    その目は妖しげな光を湛えていた。

 

 私は花輪を編んで彼女の頭を飾ってやり、

    馥郁たる花の腕輪も腰帯も作ってやった。

 彼女は、私を恋しているかのように、

    私の眼をじっと見つめ、呻き声をあげた。

 

 私は彼女を馬に乗せて静かに駈けたが、

    終日私の眼には何も入らなかった、

 彼女が横ざまに腰をおろし、

    絶えず妖精の歌を口ずさんでいたからだ。

 

 彼女は甘い草の根や

    野生の蜜や甘露を探してくれ、

 異様な言葉で私に囁いた、

    『私は貴方を愛しています―心から』と。

 

  彼女は私を魔法の洞窟に連れてゆき、

    涙を流してはため息をついた。

 その怪しい光を湛えた眼を、

    閉ざしてやった、四度、接吻を繰り返しながら。

 

 やがて彼女は私を眠らせてくれた、

    私は夢を見た。だが、なんと悲しいことか、

 それがこの冷たい丘の中腹で見た

    最後の夢になってしまったのだ。

 

 夢の中には青白い王侯や武者たちが現れた、

    いずれも死人のように蒼ざめていた、

 そして、叫んでいた、『あのつれない美女が

    お前をとりこにしてしまったのだぞ!』と。

 

 暗がりの中に、死の形相もすさまじい彼らの唇が浮かび、

    大きく口を開いて凄惨な警告の叫びを上げていた。

 私は眠りから覚め、気がつくと、

    この冷たい丘の中腹にいるのが分かったのだ。

 

 私がこのあたりから去ろうとせず、

    一人寂しく蒼ざめてさ迷っているのはそのためなのだ、

 湖の菅の葉は枯れ果て、

    もう鳥も鳴かなくなってはいるのだが」

 

  (平井正穂編 『イギリス名詩選』

    岩波文庫 2004年第31刷 より抜粋)

 

 作中で「見事な鎧」に身を固めた騎士、knight-at-arms、が表すものとは読む人のそれぞれであろう。騎士からすぐに連想される強い道徳心や忠誠心でもいいだろうし、at-armsから直接的な強さや頑丈さととってもいいだろう。しかし各々が心の中で高尚とするものを彼の鎧に投影した時、「独り寂しく蒼ざめてさ迷っている」彼の背負った苦悩の深さが作品内からにじみ出る。
 

 彼と美女の出会い、そしてその後の自然風景の中で育まれるひとときの甘い時間は、妖しげな言葉たちとともにリズミカルに綴られる。しかし彼女が愛を囁く言葉は異様であり、その眼は怪しげな光を湛え、ついには彼を魔法の洞窟に誘う。彼が出会った美しい女とはセイレンだったのだ。 
 

 妖しくも魅惑的で、消え入るような弱さを見せるこのセイレンという存在は歴史と空間を超えて多くの作品の中に登場するが、その中でもダンテの『神曲』煉獄編で登場するセイレンはキーツの描くセイレンの姿と極めて類似した表現を与えられており、かつより直接的にその正体を描かれている。

 以下、河出文庫神曲』煉獄編 平川祐弘訳より。

その頃、私の夢の中に女が姿を現した。

 吃りで、やぶにらみで、足は曲がり、

 両手はともにもがれて無く、顔色は青ざめていた。

私がその女を見つめていると、ちょうど太陽が昇って

 夜中の重く冷え込んだ体を慰めてくれるように、

 私の視線が女の舌を緩めた。

たちまち女はすらりと

 立ち上がった。そして蒼ざめていた顔には

 恋する女のように、ほんのりと紅がさしそめた。

こうして舌が軽やかになった時、

 女は歌を歌いはじめたが、その声を聞くと

 気も心も吸いつけられ離れがたい思いだった。

 
「私は」と女が歌った、「歌い女のセイレン

 大海原の真只中で船乗りたちを迷わせてしまうほど

 美しい歌声に恵まれておりました。

この声でオデュッセウスを正道から

 誘きだしたのでございます。私のはたにいる者は皆

 恍惚として、滅多に立ち去る者もおりません」

 

 この後にダンテを導くヴェルギリウスが夢の中に現れてセイレンの服を引き裂き、その臭気によってダンテを我に帰らせる。

 「つれなき美女」と同じく、高みを目指す者たちをおとしめ、苦悩させるセイレン。このような描かれ方は、時代や作家によっては批判的に受け止められ、別の表現を与えられることもある。しかしセイレンが美しく、神秘的で、出会った者を魅了する事には違いはない。

 歴史と空間を超えて形を変えるこの象徴たちは、我々の思想や感受を投影する器であり、かつてより人々の心を震わせてきた一つの生命である。
 
 蒼ざめた騎士が目覚めた冷たい丘の中腹もまた、かつてダンテが深き森より、3匹の獣に阻まれて登ることのできなかった、あの丘なのだ。

 

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