小説 ジキル博士とハイド氏

各時代ごとに造られる怪物観

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 「怪物は境界線に存在する」という言葉がある。

 我々人間は完璧に境界を異にした存在に対しては、それがいかに恐ろしい存在であっても怪物という言葉は使わない。

 異質な存在であるにも関わらず、そこに人間的な何か、あるいはかつて人間であった時の何かを垣間見るからこそ、その存在は怪物なのである。

 

 『ジキル博士とハイド氏』のハイド氏の怪物性についての描写は沢山あるがその中でも最も興味を持った部分は作品のクライマックスでもあるジーキル博士の陳述書の中にあった文章で、善と悪について述べられたものである。

 ジーキルは後の研究で彼の考えを凌駕する人々の多元的人間観をも予感しつつ、人間が二元的な存在だという真理を悟る。

 

 その二元性には様々な解釈が可能である。そこには当時の関心を集めていた進化と退化、男性と女性、イギリスとアイルランドなど様々な問題を当てはめて読むことができるだろう。

 ここでは最も直接的な解釈、善悪の二元性として考えて見たい。

 

 善と悪を二分しようとした結果ハイド氏を生み、それについて「善と悪の二大領域が、大多数の人間よりもはるかに深い溝で仕切られる結果となった。」と語っている。

 つまりハイド氏は人格を分離した結果の純粋な悪の存在としての怪物なのである。

 

 純粋な悪といってしまうと境界線上にいる怪物というより、悪魔的な別次元のものと考えられるかもしれないが、この作品の中では「すべての人間は善と悪の混合体」であり「エドワード・ハイドのみは、全人類のなかでただひとり純粋な悪」なのである。

 だとすれば、ハイド氏に出会うものすべてが彼を奇形とみなし、嫌悪の情を起こさせる怪物的な存在であるのは、自分のなかにもその「悪」を持っているからだろう。

 

 その「悪」はヴィクトリア朝では特に嫌悪されていた快楽や野蛮性のような本能的な行動をさすのかもしれない。

 そう考えるとハイド氏の、絞首刑を免れるためにはジーキルに戻ったり、生への驚異的な執着を見せたり、といった行動はとても興味深い。

 そもそも人間の本能的なあらゆる行動は、自己保存と種族保存のために身体に備わった必要不可欠な感覚である。イギリスの発達した文明とキリスト教的価値観のもとで、それをどんなに悪と呼び捨てようと、それは否定しがたく誰もが持っている。

 

 そういった「悪」を当時のイギリスの社会秩序で抑圧することで、文明を維持するイギリス人の姿がジーキルなのであれば、生命に驚異的に執着するハイド氏の姿は、人間の抑圧された自然な機能の叫びであり、そういったものを怪物視する彼らこそが、他の文化圏の人々や人間以外の生命から見ればなにか不可解な生活を送る生物としての怪物といえなくもない。「善」の化身たるジーキルもまた、怪物なのである。

 

 放浪好きで都会を嫌ったスティーブンスンの描くハイド氏はある意味、我々も含めた文明に生きる人間の不可解な生活へのアンチテーゼとしても解釈できるのではないだろうか。