映画 善き人のためのソナタ

 

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・ヴィスラーの出会った二つの作品

東ドイツ国家保安省(シュタージ)の大尉ヴィスラー。 

彼が監視することになる劇作家ドライマンとその恋人マリア。

 彼らの情熱的な愛情の日々を盗聴するヴィスラーはやがて、自身の孤独な生活や、社会主義を利用して権力乱用を繰り返す高官、そして自身の乾いた精神を見つめるようになる。

 そんな彼を決定的に変えてしまう2つの作品。それはブレヒトの詩とベートーヴェンの旋律であった。

 

ベルトルト・ブレヒト 「マリー・Aの思い出」

 ある日孤独を癒すために娼婦と一夜を過ごした後、ドライマンの部屋にこっそり入ったヴィスラーは一冊の本を盗む。それはブレヒトの詩集であった。

(以下字幕より)

 

9月のブルームーンの夜

スモモの木陰で、青ざめた恋人を抱きしめる

彼女は美しい夢だ

真夏の青空に雲が浮かんでいる

天の高みにある白い雲

見上げると

もうそこにはなかった

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 スモモの木陰で抱きしめた青ざめた恋人とは、西洋文学に繰り返し出現するセイレンである。高みを目指すものをおとしめ、魅了する普遍的存在と、彼も出会ってしまったのだ。

 (以前セイレンについて書いたのでよければ読んでください)

 

 見上げた際にもう失われてしまった、「天の高みにある白い雲」。それは情熱を知り、孤独を知ったヴィスラーが失ってしまった社会主義への信仰であろう。

 

ベートーヴェン 「熱情ソナタ」 

そんな彼にさらなる情熱の息吹が降りかかる。

 それは政府に抑圧され、苦悩し、自殺した演出家が死の直前に送った、ベートーヴェンの情熱ソナタの楽譜である。

 友人の死を嘆き、静かにピアノを奏でるドライマン。彼はマリアに語る。

 

「レーニンは情熱ソナタを批判した。

これを聴くと革命が達成できない。

この曲を聴いた者は、

本気で聴いた者は、悪人になれない」

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 かつて人類に理想郷をもたらすために、強固な秩序を必要とした思想は、苦悩と喜びの旋律を恐れ、同時に魅せられていたのである。

 その旋律は理想郷を失った絶望と、微かに予感される希望を響かせてたように思えてならない。

 

・壁なき世界で

 東ドイツ崩壊後の世界で、社会主義への信奉を失った理性と、圧倒的自由を前に表現手段を失った情熱はどのように出会い、何を生み出したのだろうか。

自由とともに反抗すべき対象、そして自我を失った二つの魂。

資本主義の息吹の下、入り乱れる価値観に惑う芸術家は、かつて彼を監視し、やがては彼を守るようになった一人の人間を見出すのだ。

ラストシーンでのヴィスラーの微かな微笑みに涙が止まらない。

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