映画『ザ・スクエア』 四角形の外側と越境者たち

 

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羨ましさを隠して

 映画を観ていて、とりわけ個人的に思い入れの多いヨーロッパの各国などを見ているといつも思うことがある。

 映画の中で主人公が悩んだり戦ったりしているのを全力で応援しながらも、その美しい街並みや、文化的な生活、先進的な国家制度が、羨ましくてしょうがないのだ。

 色々悩んでいるけどあんたたち、最初から恵まれてるじゃん、そんな思いを押し殺して、登場人物に没入しきって泣いたり笑ったりする。

 とても現金な感覚だし、映画を見る態度としては稚拙なのもわかる。でもやっぱり羨ましいものは羨ましい。

 

映画の中に描かれる「羨ましがる私」

 

 しかし本作「ザ・スクエア」。映画の所々にそんな「羨ましがる」声を代弁する姿が、事細かに描きこまれている。むしろそういった「外部からの声」との葛藤こそ、本作のテーマなのだ。

 美術館のチーフキュレーターとして、仕事に事件に人生に、色々と葛藤している主人公が右往左往するわけだが、その葛藤のすみで、ホームレス、物乞い、差別と貧困にあえぐ移民たちの、呪詛に満ちた姿が映さ続けるのだ。

 そして彼らは常に、ビシッと高級スーツにおしゃれな髪型とメガネのモテ男の主人公に、声をかけては無視され続ける。

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 主人公の羨ましくてしょうがない生活を画面越しに眺める私と、圧倒的な格差の下から手を伸ばす彼ら、それがまさしく写し鏡のように思えたのだ。

 そんな態度が甘えであることもまた、この映画は教えてくれるわけだが。 

 

「スクエア」の外側

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 EUをはじめとした、私たちの仰ぎ見る先進国には常に、「外部」がある。

 本作のタイトルであり、ストーリーを牽引する影の主人公である美術作品、「ザ・スクエア」。確固たるルーツと思いやりの場所であると謳われるその四角形。それは彼らをレンガで、そして柵で、あるいは壁で囲い、彼らの日常を「外部」から保護する。

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 そんな四角の中で最も純粋培養されたような主人公。清潔で、特権に恵まれ、文化的、あまりにも文化的な生活を送っている彼らのような「内部」の人間たちは、傲慢にも壁の外にいる人間たちを無視しながらも、時に壁の外を覗き、生を実感しようとする。本作においてそれは、「アート」「アート」と繰り返し呼ばれる、現代美術がそれに当たる。

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 安全圏から平凡なもの、未知のもの、野蛮なものを額縁に入れて覗き見ては感興に浸る人間たち。彼らに向けられる避難の声はしかし、安全圏から映画をみる我々鑑賞者たちにも、向けられてはいるのだが。

 

 

越境者たち

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 本作ではそんな壁を超えて、主人公たち「内部」の人間たちの、ぬくぬくとした文化的、インテリ、金持ちライフを揺るがす存在たちが描かれる。

 上流社会が一堂に集合して、鼻持ちならないモダンアートを楽しんでいる時、鑑賞者たちが被鑑賞物から思わぬ反撃を受ける一連のシークエンスなどには思わず大声で「ざまあみろ!」と叫びたくなるようなカタルシスがある。あの類人猿を演じさせられた道化役者は、「スクエア」の外側で「野蛮」と見なされた存在の叫びの声、怒りと悲痛の声でもあるわけだ。しかし彼の末路はひたすらに悲しい。

 そして何よりも重要な越境者であるあの少年。彼と主人公の間にある葛藤が、映画を見終わった後でも頭にこびりついて離れない。なんとも見事で意地悪な苦味あるラストシーン。本作は安易なカタルシスを許さず、私たちに大きな葛藤を残して終わる。

 感動で泣かされるようなこともなければ、エリザベス・モス演じるアメリカ人が飼ってるチンパンジーが端っこでお化粧しているシーン以外特に笑いどころもなかったけれど、出会えて嬉しいのはこういう映画だ。