虚構について 『サピエンス全史』より

 

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 人類の祖先ホモ・サピエンスは、ある時期地球上に存在したもう1つの人類、ネアンデールタール人よりも背丈筋力、脳容量において劣っていたそうである。

 個体同士の能力におけるネアンデールタール人の優越にも関わらず、我らが祖先たるサピエンスはいかにして競争を制したのか。

 著者はそれを言語能力、しかも驚くべきことに「噂話をする能力」によって獲得したと言う。

 

「噂話」と想像力

 「噂話」とは要するに、周囲の人間、周囲の環境について互いに情報を交換することであり、同時にあることないことを互いに喋り散らすことである。

 新世代のサピエンスがおよそ7万年前に獲得した言語能力は、サピエンス同士の精緻で多彩な表現を可能にした。そこには当然、現実とは異なる事実、現実には存在しない事物も含まれる。煩瑣な言語能力は、サピエンスに類い稀なき想像力を与えたのだ。

 同時に、誰が信頼できるか、どこが危険か安全か、何が役に立つか、無限に等しい情報を交換しあうことで確固たる信頼関係を築き上げ、小さな集団を大きな集団に拡張することを可能とした。

 互いに協力し合うことで連携し、身体能力において自分たちに勝るネアンデールタール人を圧倒した。

 

想像力は「虚構」へ

 しかし「噂話」だけでは足りない。あることないことを無限に語り合うことは、互いに足を引っ張り合うことでもある。共通の敵がいなくなれば、たちまち自壊に向かうだろう。集団の信頼と協力を確固たるものにするために、人類はさらなる能力を獲得する必要があった。

 サピエンスの類い稀なき協力関係について、著者はもう1つの驚くべき指摘をする。凄まじい数のサピエンス同士を互いに連携させ、それぞれの利害関係を超えて集団的に行動できる能力の大本には、サピエンスの「虚構」を信じる能力があると言う。

 「虚構」とは現実には存在しない存在である。「虚構」とはサピエンスの想像力が生み出した幻想である。

 「宗教」という例はその代表的な一例としてわかりやすいだろう。しかし著者の指摘はそこにとどまらない。今日私たちが当たり前のようにその存在を信じている存在、企業、通貨、国家、民主主義、人権などですら、人類が生み出した「虚構」なのだと言う。

  その虚構の下に互いに連携し、虚構のために行動し、時に命すら捧げる。そんな巨大な協力関係の創出こそ、サピエンスの地上における繁栄、食物連鎖の頂点に立つことを可能にした最大の能力であると言う。

 

「虚構」の力

 私はこの「虚構」を1つの、より高次元の「生命」だと思う。一人一人は卑小な個人が、1つの信念を共有して感じ、行動する時、私たちは巨大な生命の一部となる。私たちはその生命の手足、血肉、細胞となって、個への執着を忘れるのだと。

 集団で歌い演奏する時、クラブで集団に埋もれて踊る時、スポーツ観戦に集団で熱狂する時、私たちは「感動」する。えも言われぬ「解放感」を覚える。

 それは自我に閉じ込められた小さな「個」が、集団の中に融合してゆく快楽、自己という存在が1つの新しい「虚構」の誕生に立ち会う瞬間に、人類が太古より感じ続けてきた陶酔があるように思うのだ。

 歴史上繰り返されてきた、国家・思想・宗教への熱狂もまた然り。時代ごとに新たなる虚構が創出され、その虚構を補強修正する賢人たちによって発展、または自滅していった。

 

 映画作品、あるいは「物語」でよく我々の心を動かす十八番の泣かせどころも、この「虚構」の誕生の瞬間が多い。

 強大な敵の存在を前にして、異なるキャラクター同士が反目を超えて一致団結する瞬間、巨大な集団と集団が命を投げうって合戦する瞬間、主人公の必死の努力に群衆が共感する瞬間、そこで我々を襲う圧倒的な感動もやはり、1つの大きな生命の誕生、個人が1つの生命の一部となった瞬間を目にした普遍の感興があると思うのだ。

 あるいは「自己犠牲」への感動にも似たところがある。文字通り、自己の存在をより大きな存在に捧げる行為に対する圧倒的な感動、それもまた太古から連綿と続く感興なのだと思う。

 虚構は幻想である。しかし人々の想像力の中に確固たる生命を持ち、地上を歩き回る巨人でもある。

 虚構に支配されるも虚構の力を借りるもその人次第なのだろう。