何の喜悦も感じられず、また暴動様の怒りもない。祭りの日の巡礼とならば、共通の目的がありそうなものなのに、それもない。
人間は無意味に口をぱくぱくやり、目の玉をぎょろつかせて荒野を目的なく彷徨する集団に過ぎない。
人生もまた生から死への無意味な巡礼であるか…
激動のスペインを生きた宮廷画家、ゴヤはある時期、「聾者の館」と呼ばれた邸宅に引きこもる。その場所で誰に公表するつもりもなく、直接邸宅の壁におどろおどろしい奇怪画を描き続けた。俗に「黒い絵」と呼ばれる作品群である。
我が子を喰らう父、棍棒で殴り合う男たち、魔女に連れ去られる人間、砂に飲まれゆく犬…。残酷で陰惨な作品の数々にも関わらず、この「黒い絵」は多くの人を魅了してきた。
そこには怖いもの見たさ、怪奇趣味などといったこととはまた別の、不思議な魅力があるのかもしれない。そこに描かれている魑魅魍魎たちは確かに、私たちの日常の中に存在し、時に対峙を迫る存在に思えるのだ。
暗さ、救いのなさ、残酷さ。かくまでも赤裸々に、なんの虚飾もなく壁に描きこまれた魑魅魍魎の世界。その生身の姿の放出を前にして、凄まじい生命力を与えられるとでも言えばいいのだろうか。
『聖イシードロの巡礼』もまた、我々の世界に確かに存在する光景なのだと思う。どこにその巡礼を見出すかはその人次第ではある。私個人にとっては、日常の至る所にこの巡礼をみる思いがする。
連綿と連なる人の列は、狂気と悲壮に満ちた相貌の人々を先頭に、怯えるように歩みを進める。堀田善衛の指摘する通り、それは人生そのもの、先頭の彼らは目前に迫る死を前に怯え、すくみあがっているように見える。
最前のギター弾きの顔つきの、なんと狂気に満ちて悲壮なことか。彼のかき鳴らす音色は、聾者のゴヤと同じく我々には聞こえない。
時代ごとに異なる音色が掻き鳴らされてきたことだろう。現代社会においても連綿と続くこの行進において、そこにはいかなる音色が掻き鳴らされていることか。
そしてまた、独り行進から離れ孤立して、画面の外を見つめる人間が右端に在る。彼が目にしている風景はいかなるものであろうか。
堀田善衛の指摘によると、彼の視線の先にはもう1つの黒い絵作品、『我が子を喰らうサルトゥヌス』像がそびえ立っていると言う。何とも救いのない話である。そこには何1つ安易なカタルシスがない。
しかしゴヤはこの黒い絵を邸宅の壁に描きつけ、その中に暮らした。見る人を凍りつかせるような狂気、陰惨さ、救いのなさに形を与え、その中に生きた。
魑魅魍魎は姿を与えられることで潜在の混沌であることを止め、過酷な現実を受け入れる、あるいはそれと対峙する覚悟へと姿を変える。
ゴヤ自身もまたこの巡礼から離れ、あるいは離され、その外側でこそ自由に世界を見る人であった。
その目に映る光景に画家の長年の経験と技術が結晶し、他者である我々の心をも動かす生命の強さ、尊さへと昇華されていく。
かの巡礼を観て、我々はいかなる覚悟、あるいは力を与えられるものであろうか。