モンテーニュ1

 

 自分の存在を正しく享受することを知ることは、ほとんど神に近い絶対の完成である。

 我々は自分の境遇を享受することを知らないために、他人の境遇を求め、自分の内部の状態を知らないために、われわれの外へ出ようとする。

 だが、竹馬に乗っても何にもならない。何故なら、たとえ竹馬に乗っても、なおかつ自分の足で進まねばならないし、世界でもっとも高い玉座に昇っても、やはり自分の尻の上に座っているからである。

 もっとも美しい生活とは、私の考えるところでは、普通の、人間らしい模範にあった、秩序のある、しかし奇跡も異常もない生活である。

 

モンテーニュ  堀田善衛『ミッシェル 城館の人より』

 

 モンテーニュの言葉を聞いているといつも、自分を背伸びして見せることがバカらしく思えてくる。凡庸であることを恐ろしいとは思わなくなる。

 「答えはあなた自身の内部にある」どこかで聞いたような言葉である。要はモンテーニュも、よくある自己啓発本に載っているような「自分自身賛歌」を書いていることに違いはないわけだ。

 しかし彼は自分自身を決して高いところには置かない。人間誰もが持っているもっとも基本的なスペック、つまりは経験と感受そのものを、いや、そんな言葉すらもいらない。「生命」そのものを、まるで子供のように慈しんでいるのだ。

 幼少の頃からラテン語をマスターし、書物と教養のお化けのような存在であったにも関わらず、彼はもっとも素朴に「生」そのものへの愛の賛歌を歌い続けている。

 彼が「自分自身」について語るとき、そこには自我の臭みがない。彼の稀有な経験、そして類まれなき教養と才能は、「生」にまとわりつくあらゆる虚飾を退けることに費やされた。それは何と幸福なことだろう。

 人間誰もが持っている「自分自身」を、血眼に装飾し、虚栄に浸ること。そんな竹馬も王座もいらぬと、彼は言う。奇跡も異常もいらないのだと言う。

 そこにこそ自由があるのだと思う。生の喜びもまた。