キャベツについて

 

 

 最近たくさんキャベツを食べている。毎日ひたすら食べている。シャキシャキとあらゆる食事の味を引き立てるキャベツは、甘み、風味、食感、栄養、そのどれをとってもポテンシャルは無限である。

 さらに言えばキャベツは消化にも優しい。消化によって体内の血液のほとんどを持ってかれると、人は眠気を覚える。視界はボヤけ、集中力もなくなる。気分と欲望の奴隷となるにはもってこい。意志薄弱の身体はあらゆる刺激に引きずられ、日常には間延びした影が差す。

 生活をいかに己が理想に導きゆくか。栄養をいかに苦痛なく血肉に替えるか、それらを決定する重要な存在こそ、消化の質であると思うのだ。適量食べれば満腹、胃腸を滑るように流れて栄養となり、エネルギーとなるこのキャベツというやつは、人々の生活に革命をもたらしたのだ。

 話は飛ぶが禁欲の修行僧を見て、その姿に人間離れした高尚を見るのだろうか?彼らが愚かな狂信者でなければ、彼らはただ自己選択によって己に最も快い生き様を選んだのである。彼らは消化に疲れ、消化に苦しんだ。そして極力消化を減らしつつ、この世界そのものを食すことを選んだ人々なのである。

  話を戻そう。私がキャベツを食べるか、あるいはファ◯チキを食べるか判断するとき、そこには何の信仰もなく、道徳も理想もなく、ただ理性と計算に基づいた最大公約数の心地よさを求めてキャベツを選ぶのだ。ファ◯チキは大好きなのに、である。

 しかし理性のなんと儚く気まぐれなことか。世間に溢れる多くのファ◯チキに、毎日を引きずり回されないこと、それはいかにして可能か。一日三食ファ◯チキ食べるのが常識の世界で、キャベツとかいう貧弱な味覚をあえて選んで、そのキャベツにこそ味の深みを見出し、秘められた栄養に健康を増進する日々は、いかにして訪れ得るか。

 それを可能にするものは、今ではずいぶんと高飛車な言葉になってしまった「教養」というやつを他にしてありえないように思えるのだ。 

 教養のもたらす選択肢は、一見して非日常的、時に反社会的、稀に変態的ですらある。

 しかしそれは日々新鮮な知恵と視野を与えてくれる。常識に閉じ込められた種々様々の可能性を垣間見せ、何ものも押し付けはしない。ファ◯チキのジューシーで脂ギッシュな味わいを超えた美味、珍味の存在を、ただそっと教えてるにとどまる。一人灯明の下で沈思する深夜、それは耳元に囁きかけるのだ。「キャベツ…」と。

 それにキャベツは安い。ファ◯チキ一個の値段で優にひと玉、数日分のキャベツ生活を提供してくれる。キャベツ生活の至福を得るためには、富も地位も、健康すらも求められはしない。キャベツを得るためには、どんな隷従にも、どんな欺瞞にも屈する必要はない。

 むしろそれらからの解放をこそ、キャベツは教えてくれるだろう。そう、キャベツは味もコスパも備えた、我々の最強の味方なのだ。

 しかし真にキャベツを知る道は、長く険しい。ファ◯チキとキャベツの試行錯誤の日々は、時に不安であり、時には孤独ですらあるかもしれない。

 時にファ◯チキファンを背にした孤独、孤立の日々に耐えるためにキャベツを神格化したりする。ファ◯チキファンを唾棄すべき俗人と見なして愛と友情に飢えたりもする。そんな内面の飢え、貧困を補うことほど、高くつくものはない。

 どうかキャベツを神格化しないで欲しい。生でキャベツを食ってその味の深みを喧伝するような愚を犯さないでほしい。美味しいシーザーソースや粗挽き胡麻ソースをじゃんじゃんかけて味わってほしい。味覚の洪水のごときファ◯チキを細かく刻んでキャベツと一緒に炒めたり、ファ◯チキをキャベツとパンで包んでみるのも時には良い。時にファ◯チキに胃もたれしたその嘔気の苦しみが、キャベツへの道を開くであろう。

 美味しくて体にいいからキャベツはキャベツなのである。より善き栄養として、より善き血肉となるからこそキャベツはキャベツなのである。