モンテーニュ2
あらかじめ死を考えておくことは、自由を考えることである。
死を学んだ者は、奴隷であることを忘れた者である。
彼のこの言葉を聞いて、不思議と目の前に広がる光景が輝いては来ないだろうか。
しかし通常、なぜその光景は輝いていないのだろうか。
それは日常の心労が、広漠な糸を張り巡らせて我々を縛るからである。仕事、勉学、人間関係。休みない競争が、私たちを掴んで離さない。
忙しい日々の生活の中で死を考えることは思った以上に難しい。というより少し異常なこととも言えるだろう。
あまりにも大きな深淵たる「死」が想像し難ければ、小さな死を想像してみるのはどうだろうか。
たとえば日曜日である。
日曜の夕方、我々はなんとも言えぬ憂鬱にとらわれはしないだろうか。それは小さな死なのである。
金曜の夜に生を受け、無限に思える二日間に遊び、あるいは惰眠を貪る。そして我々は再び元の道に帰ってゆく。
そんな日曜の夕方、残された時間は妙に切ない輝きを宿していないだろうか。
あるいは卒業、別れ、旅立ちの時、そこで涙する人がいるのも、彼らがそこに死を垣間見るからではないだろうか
変わり栄えのない日常の繰り返しが儚い一瞬に思え、過ぎ去った日常の中に、美しい光があったことに気づく。
その時私たちは日々の連続と停滞を忘れ、その先に漂う死の香りをかすかに感じているとは言えないだろうか。
死のほのかな深淵より平凡な日々を覗き返した時、我々の生は思ったよりも短く、思ったよりも美しく、誇り高いものであることを知るのだ。
そんな光を前にして、広漠に張り巡らされた不安の糸はただ糸でしかなく、確かにここに呼吸し、世界を見、感じる生命の存在を思い出す。
その時人は、もはや日々の不安、日常の奴隷であることを忘れるのだ。
いずれにしても我々を迎い入れる死を前に、我々はその糸を引きちぎるも、紡ぎ合わせて遊ぶも自由なのである。