映画 『馬を放つ』
“はるか昔 私たちは山の川から現れて
群れをなしてやって来た
お前たちの 腹心の友となるために
人間の翼になるために
以来人間を友と信じ
この地に生きてきた”
ー映画字幕より
かつて映写技師であった主人公は、現在は細々とした仕事で食いつなぎながらも、息子と、聴覚障害の妻とともに慎ましく暮らしている。
しかし主人公は金持ちが名馬を買った噂を聞きつけるやいなや、夜な夜なその名馬を逃し、大地に放してやるのだった。
キルギスに暮らす、貧しい遊牧民の末裔たち。かつて自然に隣り、互いに糧を分かち合った騎馬民族であり、一度は西欧をも征服したモンゴル人たちとも、誇り高く戦った。
広大な自然を舞台に、我々がとっくに失い、卒業したつもりでいる近代以前の人間の営みと、その喪失を、静かな魂が絶叫する。
近代化の波に乗り遅れた田舎者のおっさんが、よくわからない動機で迷惑行為を繰り返す。それだけの話である。
しかし終始静かタッチで描かれる本作で、寡黙で心優しい、何がしたいんだかさっぱりわからぬ男こそが秘めていた魂の叫びは、深く心に響くものがある。
“ところがお前たちは 自分を神だと思い込み
母なる自然を壊し始めた
富と権力を 手に入れるために”
肉にされる馬たちの涙を思うと
心が引き裂かれ 平静でいられなくなる
よくも言えたものだ ぬけぬけと
“馬は人間の翼だ” などと
俺たちは翼も心も失った
怪物になってしまったんだ
ー映画字幕より
西欧の文学作品などではひたすらに、「精神」を象徴する騎士に対して、「身体」の象徴として描かれることの多い馬。
しかし馬を心から慈しみ、過去の神々を重ねる主人公にとってその2つは、決して切り離されてはならぬかけがえのない生命の一部である。彼はケンタウルスなのだ。
忙しく日々を生きていくうちに、少しずつ失われかねない人間性。振り返る暇もなく、なおざりにされたままの、熱く、豊かで、言葉にし難い何か。
そんな形にならないはずの何かを、形にして見せるものこそ、近代の生み出した黄金たる映画である。
「精神」の結晶たる映画を通して、今まさに失いかけている何かが、心の中で放たれる思いがした作品である。
映画『ザ・スクエア』 四角形の外側と越境者たち
羨ましさを隠して
映画を観ていて、とりわけ個人的に思い入れの多いヨーロッパの各国などを見ているといつも思うことがある。
映画の中で主人公が悩んだり戦ったりしているのを全力で応援しながらも、その美しい街並みや、文化的な生活、先進的な国家制度が、羨ましくてしょうがないのだ。
色々悩んでいるけどあんたたち、最初から恵まれてるじゃん、そんな思いを押し殺して、登場人物に没入しきって泣いたり笑ったりする。
とても現金な感覚だし、映画を見る態度としては稚拙なのもわかる。でもやっぱり羨ましいものは羨ましい。
映画の中に描かれる「羨ましがる私」
しかし本作「ザ・スクエア」。映画の所々にそんな「羨ましがる」声を代弁する姿が、事細かに描きこまれている。むしろそういった「外部からの声」との葛藤こそ、本作のテーマなのだ。
美術館のチーフキュレーターとして、仕事に事件に人生に、色々と葛藤している主人公が右往左往するわけだが、その葛藤のすみで、ホームレス、物乞い、差別と貧困にあえぐ移民たちの、呪詛に満ちた姿が映さ続けるのだ。
そして彼らは常に、ビシッと高級スーツにおしゃれな髪型とメガネのモテ男の主人公に、声をかけては無視され続ける。
主人公の羨ましくてしょうがない生活を画面越しに眺める私と、圧倒的な格差の下から手を伸ばす彼ら、それがまさしく写し鏡のように思えたのだ。
そんな態度が甘えであることもまた、この映画は教えてくれるわけだが。
「スクエア」の外側
EUをはじめとした、私たちの仰ぎ見る先進国には常に、「外部」がある。
本作のタイトルであり、ストーリーを牽引する影の主人公である美術作品、「ザ・スクエア」。確固たるルーツと思いやりの場所であると謳われるその四角形。それは彼らをレンガで、そして柵で、あるいは壁で囲い、彼らの日常を「外部」から保護する。
そんな四角の中で最も純粋培養されたような主人公。清潔で、特権に恵まれ、文化的、あまりにも文化的な生活を送っている彼らのような「内部」の人間たちは、傲慢にも壁の外にいる人間たちを無視しながらも、時に壁の外を覗き、生を実感しようとする。本作においてそれは、「アート」「アート」と繰り返し呼ばれる、現代美術がそれに当たる。
安全圏から平凡なもの、未知のもの、野蛮なものを額縁に入れて覗き見ては感興に浸る人間たち。彼らに向けられる避難の声はしかし、安全圏から映画をみる我々鑑賞者たちにも、向けられてはいるのだが。
越境者たち
本作ではそんな壁を超えて、主人公たち「内部」の人間たちの、ぬくぬくとした文化的、インテリ、金持ちライフを揺るがす存在たちが描かれる。
上流社会が一堂に集合して、鼻持ちならないモダンアートを楽しんでいる時、鑑賞者たちが被鑑賞物から思わぬ反撃を受ける一連のシークエンスなどには思わず大声で「ざまあみろ!」と叫びたくなるようなカタルシスがある。あの類人猿を演じさせられた道化役者は、「スクエア」の外側で「野蛮」と見なされた存在の叫びの声、怒りと悲痛の声でもあるわけだ。しかし彼の末路はひたすらに悲しい。
そして何よりも重要な越境者であるあの少年。彼と主人公の間にある葛藤が、映画を見終わった後でも頭にこびりついて離れない。なんとも見事で意地悪な苦味あるラストシーン。本作は安易なカタルシスを許さず、私たちに大きな葛藤を残して終わる。
感動で泣かされるようなこともなければ、エリザベス・モス演じるアメリカ人が飼ってるチンパンジーが端っこでお化粧しているシーン以外特に笑いどころもなかったけれど、出会えて嬉しいのはこういう映画だ。
エドガー・アラン・ポー 『群衆の人』
「あの老人は—」ようやく言葉が出た。
「罪悪の典型にして権化。どうあっても一人にならない。群衆そのもの。群衆の人だ。いくら追っても無駄なこと。あの人物、あの行動が、これ以上わかることはない」
ーポー著 小川高義訳『群衆の人』より
とある秋の日のロンドンで、おそらくは著者本人であろう主人公は、コーヒーハウスの出窓からひたすらにロンドンの街頭、道ゆく人々を観察し続ける。
その光景は現代とは2世紀以上も隔てた異国の光景とは思えず、あらゆる現代都市の光景にそのまま当てはまるような、生々しくも刺激に満ちた人物模様である。
そんな道ゆく人々の中に、主人公は一際存在感を放つ1つの顔を見出す。70歳くらいの老人である。
理由もわからずに惹きつけられるその顔には、
「大変な知力がある、用心深い、けちくさい、欲深い、冷たい、あくどい、血に飢えている、得意顔、上機嫌、過剰な恐怖心、強度の—強度の絶望感、異常なまでに興味をそそられ、唖然として、夢中になった」のだそうだ。
魅了されているのか嫌悪しているのか、どちらの感情も混じり合った興奮を抑えきれず、なんと主人公はその老人へのストーキングを開始する。
急に陽気に悠然と歩いたと思えば、卑屈に青ざめて歩いたり。なんの目的もなく市内のあらゆる場所を徘徊するこの老人。
結末で「罪悪の権化」なる「群衆の人」と呼び捨てられるこの老人ではあるが、基本的に人間を前にするすぐに、伏し目がちで臆病な態度をとっている。散々ストーキングして性根尽きた主人公が、遂に老人の正面に立ち尽くして睨みつけても、老人は目を合わそうとすらしない。
「都市を漂流する自意識」とでも言えば良いのだろうか。とても「群衆」を体現しているとは思いたくないこの老人ではあるが、どこか共感し、納得できてしまう人物像である。
老人の一番の不幸は、ひたすらに「見るもの」を探し求めながらも、結局何も見つけられない、だけでなく主人公の異常なストーキング被害者として、彼自身が「見られるもの」であり続けざるをえない、そんな皮肉な悲劇性である。
常に「被観察者」としての立場を逃れられない、そんな老人の不幸は、重い自意識に取り憑かれた現代人のありようと深く重なりはしないか。
一人でいることができず、何かを求めて都市を徘徊する。しかし人知れず皮肉な観察者に苛まれるだけで、何をも見出し得ない。
魂を浄化するような救い、刺激、あるいは幸福を探しながらも、遂には見出すことのできず、地上を彷徨う人間たち、それが主人公の見た「群衆の人」であったのかもしれない。
市内を徘徊する老人を2日間もストーキングする主人公は、老人に負けず劣らずの暇人であり、かつ上から目線の異常者であるが、少なくとも彼は「見るもの」、「観察者」であり、一人勝手に知的好奇心に遊んでいる。
ある意味で老人は、著者ポーの病んだ自意識そのものであり、「ようやく回復期にあって身体の力を取り戻しつつあり、いわば倦怠とは正反対の浮き立った気分」で病んだ自己を「老人」として客観視して見せたのかもしれない。
たった十数ページの短編にも関わらず、都会人、いや現代人に重くのしかかる呪いと、その呪いからの救済の道を、サラッと書き上げて見せた、良作なんだと思う。
映画『静かなる復讐』 人間の正体不明性
あらすじ
服役中の夫の帰りを待つアナ。家族で経営するバーで嫌々働く彼女の元に、ある日見慣れぬ男性が現れる。他の男たちと違って大声で下品な冗談も言わず、物静かで身なりも比較的きちんとしている。
どこかミステリアスなその男=ホセ(アントニオ・デ・ラ・トーラ)は毎日店にやってきて、徐々に客たちや店で働くアナの家族たちとも打ち解けていく。
アナもまたそんなホセに惹かれてゆき、2人はやがて男女の仲になる。しかし彼の正体は…、
一部公式サイトより抜粋
正体不明者、アントニオ・デラ・トーラ
映画『カニバル』で食人鬼を演じたアントニオ・デラ・トーラ。
食人鬼はとある女性の中に隠された善意や愛を見いだしていき、とある女性は男の中に隠れた狂気を見出していく。どちらの目線にも、「あなたは一体何者なの…?」という人間の正体不明性を前に、呆然と立ちすくむ人間の姿が映る。
本作でも、アントニオ・デラ・トーラ扮する主人公は相変わらず正体不明者である。孤独で、得体の知れない行動原理を持つ彼の姿は、ほとんど食人鬼のそれと変わりない。
しかしこの作品に出てくて来る正体不明者は彼だけではない。
むしろ作品に出て来る登場人物全員が、正体不明者だと言っていい。
主要人物全員が正体不明者
そんな言い方をすると、何か実験的な映画のように聞こえるかもしれないが、そんなことはない。
そもそも初めて観る映画の登場人物が正体不明なのは当たり前である。
しかし主人公の目線とともに、彼と交流する人々の日常が生き生きと描かれながらも、彼らが予想もできない一面を隠し持っているところに、本作の面白さがある。
寡黙に人々を観察し、人々の話をじっと聴き続ける主人公の態度は、通常の映画作品以上に私たち観客の目線と重なるものがある。
そしてじっと見、聞き、交流し続けてきた彼らが、全く予想と異なる存在であることに、観客はリアルな実感をもって驚かされる。
主人公、主人公の友人たち、恋人、憎むべき敵、病院の寝たきりの男性、彼ら全員の見え方が、映画を見始めた時と、見終わった後で大きく変わることになる。
現代人にぴったりな人間観
このような人間たちの姿は、建前と本音を巧みに使い分けねば生きていけない現代人にとって、とても親しみ深い姿ではないだろうか。
全く異なる背景を持つ人間たちが日常的に交流し、友情を育み、愛し合う。しかし彼らの正体を、私たちはどこまで知っているのだろうか。
本作でも何度も映されるソーシャルメディアにおいては、より一層美化された表層同志の交流の裏に、見えざる人間たちそれぞれの、複雑な思いが渦巻いている。
隠された「闇」ではなく隠された「光」
「復讐」や「殺人」と言ったまがまがしいテーマを含む本作であるから当然、裏切りや嫉妬、暴力性と言った「闇」が、人間の中に見え隠れする。
しかし復讐に取り憑かれた主人公が全く気づかなかった、隠れた光もまた、本作のいたるところで見え隠れする。
映画の最終パートに至っては、観客も主人公も全く気づくことのなかった、隠された「光」が、彼のすぐ近くに存在していたことを知ることになる。
正体不明者だらけの本作で真に描きたかったもの、それは人間に隠された闇ではく、むしろその正反対であったのかもしれない。
ミステリアスな主人公と正体不明者たち。とめどない不安の中で描かれる復讐劇であるにも関わらず、見終わった後にはきっと、何か暖かい感情が残るはずだ。
映画『沈黙』 個人主義に目覚める西欧 個人主義に苦しむ日本
神のあまりにも長く、不気味な沈黙。
自らの信仰が信者を救うどころか、よりいっそう人々を苦しめ、無残にいたぶり殺されていく絶望を前に、究極の神の不在を経験した神父が見出したもの。それは果たして真の神だったのだろうか。
私にはどうしてもそう思えない。
そもそもそこに、「正解」など用意されていないであろう。
しかし小説家遠藤周作によってほのかに描き出されていた“ある”テーマが、マーティン・スコセッシ監督による映像化の中で、より明確に、その正体を浮かび上がらせたように思えてならない。
それは「自我」、「個人主義」である。
自己の境遇を神と重ね合わせる主人公
本作の主人公ロドリゲス。彼はキリスト教への迫害を強める、鎖国下の日本に上陸してからのあらゆる経験を、キリストの受難と重ね合わせる。弾圧下での信者たちの集い、弟子の裏切り、悲惨な尋問。それら経験する自分の中に、彼は神を見続けるのだ。
踏み絵(つまりは棄教)という自己自身にとっての究極の苦しみをもってしか、目の前に苦しむ人間を救えない状況。それは人間の罪を償うために自ら磔刑に処されたキリストと彼を、いよいよ強く重ね合わせる瞬間であった。
そんな瞬間に、彼はあの「声」を聞くのだ。
それは神の声だったのか。それとも神と自己を重ね合わせた、主人公ロドリゴの、内面からの声だったのか。私は後者であるように思えてならない。
近代人が神を否定し、己の自我を神格化していったように。
自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、
最も聖(きよ)らかと信じたもの、
最も人間の理想と夢に満たされたものを踏む。
この足の痛み。
その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。
ー原作『沈黙』より
「あの人」、それは神に代わって目覚めつつあった彼の「自我」ではなかったか。
日本人には重すぎた「神」、あるいは「自我」
一神教の教えと数千年をも共にした西欧人。ましてやその宗教の厳しい教義に身を捧げたカトリック司祭である主人公。
そんな彼が迫害の中で一人、「神」の声を聞いたのに対し、八百万の神と豊かな自然に囲まれてきた日本人にとって、一神教の神の観念はあまりに新しく、また分裂と苦痛をもたらすものであった。
伝統と慣習の中で集団的な生活をしていた人々が、突如「個人的」魂の所有とその来世的救済の教えに触れたことで生まれた不思議な信仰心。
集団的な空間に突如出現した「個人」の概念。それは江戸の権力からの迫害に抗うことで、ますます強まっていく。
しかし彼らの信奉する宗教は、西洋人の目から見て時に滑稽で、時に奇妙にすら映る。
そしてその最たる例と言える存在こそ、本作の第二の主人公とも言える、キチジロウである。
主人公を裏切り続けながらも、最後の最後まで主人公に執着し、懺悔を求め続けるキチジロウ。
彼の滑稽に見えざるを得ない生き様、繰り返される裏切りと許しへの渇望によって垣間見える、悲しい信仰の姿。それは日本における「個人主義」の根付き難たさを、身をもって体現している存在とは言えないだろうか。
野に放たれる、未熟な「個人」たち
キリスト教によって突如与えられた、個人的魂の所有、そしてその魂の救済の教えに触れてしまったキチジロウ。彼の未発達な個人主義のもたらす混乱と悲しみは、日本人にとってそう想像し難いものではないのように思える。
自然から切り離され、伝統から切り離され、しかし各々が孤独な現実主義の中で競争の中に投げ込まれる。そんな近代世界が、西欧主導で世界に広がっていった。
しかしそんな世界で我々が頼りとする「自己」の根源を探ろうにも、その存在を支える「神」は、遠い異国からやってきた見慣れぬ存在である。
近代的な孤独の中で日本人の「自己」を確立させたものは、あくまで「集団」であり、「お上」であり続けたのだ。
江戸時代後期より、近代的法治国家を目指そうにも、その背景に「神」があった西欧に追いつくために、多くの辛酸を舐めなければならなかったことは、歴史の証明するところである。
本作で江戸の権力が手懐けたかに見える神父たち。しかし彼らは独自の姿をとって日本文化と混ざり合い、この国の文化を決定的に変えてしまったのかもしれない。
映画『私はダニエルブレイク』
あらすじ
イギリス北東部ニューカッスルで大工として働く59歳のダニエルブレイクは、心臓病を患い医者から仕事を止められる。国の援助を受けようとするが、複雑な制度が立ちふさがり、必要な援助を受けることができない。
悪戦苦闘するダニエルだったが、シングルマザーのケイティと二人の子供をの家族を助けたことから、交流が生まれる。
貧しい中でも、寄り添いあい絆を深めていくダニエルとケイティたち。しかし、厳しい現実が彼らを次第に追い詰めていく。
—公式サイトより
ダースベイダー or アンチダースベイダー
政治的なテーマを取り扱った映画作品は大抵2種類に分けられる。
ダースベイダー的な作品と、アンチ・ダースベイダー的な作品である。
近代的合理主義をひたすら肯定し、秩序を乱す集団を悪として、それと戦う主人公を「正義」とするような作品はダースベイダー的と言えるだろう。
民主主義が理想に満ちていた時代や、北欧諸国のように、「制度」そのものが優れた世界においては、ダースベイダー的な作品ほど、感情移入して見られるものはない。
反対に、生命への畏敬の念、そして個人の尊厳や、当たり前の幸福を肯定し、それを脅かす「制度」と戦い続ける人間を描く作品はルークスカイウォーカー的、つまりはアンチ・ダースベイダー的な作品と言える。
ケン・ローチ監督の面白いところは、彼は完璧にアンチ・ダースベイダー的な映画を撮り続けていながらも、ルークスカイウォーカー的な理想に隠された闇も包み隠さずさらけ出すところだ。
人間の卑小さ、ずるさ、制度なきところに存在する血縁的な闘争、保守化せざるを得ない善人、…。
「エリックを探して」や「天使の分け前」など、人間のダメさ、だらしなさを暖かい目線で見守りつつ、ダースベイダー的な存在に一泡ふかせるコメディは、個人的に大好物である。
元も子もないことを言ってしまえば、ケン・ローチ監督は、ルークとダースベイダーのように簡単には、世の問題を二極化できないことを教えてくれるのだ。
しかしそんな彼が極めてアンチ・ダースベイダー的な映画を撮るとき、しかも引退宣言を撤回してまで、現代を取り扱った殺伐とした作品を撮るとき、改めて現代の制度に、なにか切迫した不安を抱かされる。
精神を失き「制度」の再来
国家行政の極度な民営化により、人間の当たり前の権利すら営利追求と乾いた制度によって拒まれる。
そんな中でひとり尊厳を守り、貧しい隣人たちを助ける善人が戦い、打ちのめされていく過程を描く本作。
監督であるケンローチは常に、近代的、功利主義的価値観によって、人間性が破壊されつつある中で、形骸化した「功利主義」に戦いを挑む市民たちを描き続けてきた。
そんな彼らが人間らしい当たり前の生活を求めるとき、常に彼らの前に立ちはだかる近代的な「制度」。
その制度が、現代に至って、より一層、冷たく、形骸化した、善意のかけらすらない存在になっていることが、1時間40分にわたってあまりにも現実的に見せつけられるのが本作である。
日常生活の中に潜むささやかな善意、愛情、共感を繊細に描き続けてきたケンローチ。
本作でもそれらは余すことなく、感動的に描かれるも、その感動にはくらい影が落とされることになる。
スカイウォーカーはいずこに消えてしまったのか。
映画『この世界の片隅に』 スズさんの右手
この作品を観初めて数分間、正直私は気分がよくなかった。
戦中の日本の過酷な生活、男女差別、不気味な戦争経済が広がっているにもかかわらず、その風景が、あまりにものどかで、都合よく加工されたものに思えてしまった。
「常にボーっと」している可愛らしいヒロイン、スズさんを通して、それらすべてが、美化されているように思えのだ。
しかしスズさんが右手とともに大切なものを失った時、今までみずみずしく描かれていた日本の風景が、今まで通りのタッチで描写されているにもかかわらず、堪え難い悲しみに満たされていく。
その時初めて気づくことができた。美化されているかに見えた戦中ののどかな日本の風景は、彼女の想像力によって、そしてその感受性をそのままキャンバスに刻みつけた、あの右手によって担われていたことを。
大切なものを失った彼女が、その想像を絶する苦痛を乗り越えた時、再び見えてくるケモノたち、新しい命、新しい世界。
彼女の想像力によって、失われた広島の光景すら、色彩豊かに復活する。
苦痛と混乱に満ちた戦後の日本を建て直した人々の中に、スズさんのような魂があったことを思うと、涙が止まらない。
失われた右手も、また手を振り返してくれるのだ。