ゴヤ2

 見るとは、しかし、いったい何を意味するか。

 見ているうちに、われわれのなかで何かが、すなわち精神が作業を開始して、われわれ自身に告げてくれるものを知ること、それが見ることの全部である。

 

ー『ゴヤ Ⅰ スペイン・光と影』堀田善衛

 

 堀田善衛は、作中でいくつものゴヤの作品、その生涯を紹介しながら、彼自身がゴヤに何を「見た」かを表明し続ける。

 私たちはものを「見」、さまざまなことを感じる。感情が反応し、「精神が作業を開始する」。

 例えば見たものに対する「好き」「嫌い」、これも精神かもしれない。しかしほとんど生理反応に近い感情だ。私の中の何がそれを愛するのか。私の中の何がそれを嫌わせるのか。見たものに対する精神の反応を探って行くことは、結局自分自身の内部を見ることにつながる。

 

 

 すなわちわれわれが見る対象によって、判断され、批評され、裁かれているのは、我々自身にほかならない。従って時には見ることに耐えるという、一種異様な苦痛をしのばねばならないことも、事実として、あるであろう。

 一枚の絵を前にして、ある人物は何も見ないかもしれず、またある人はすべてを見るかもしれない。

 

ー『ゴヤ Ⅰ スペイン・光と影』堀田善衛

 

 「見た」ものは何を意味しているか、それは何を求めているか、それをここに至らしめたものは何か。

 精神は常に作業している。しかしその精神の声を聞く耳を持つも持たないもその人次第。堀田善衛のいう「見る」行いは、突然聞いたらくそ面倒臭いものに感じられるかもしれない。しかしせっかく動植物ではなく、精神を備えた「ヒト」として生まれたのに、その精神を放棄して動植物のようにのみ生きることは、とても寂しいことに思える。

 

 時に「見るに耐えるという、一種の異様な苦痛」を避け続けるあまり、精神を見失って、動物的な欲望や精神の混沌に絡め取られて行く人は、決して少なくないのではないだろうか。

 日々の忙しさや惰性によって、自分が何を求め、あるいは何に苦しんでいるかを見失ってしまったことが、私自身にも何度もある。

 あるいは何かの名作を観、聴き、読むとき、それが退屈な苦行、あるいは単なる娯楽で終わることもあるが、その人の心を動かし、昇華させ、生きていく中で向き合わねばならぬ多くの困難を乗り越える友、叡智、武器になってくれることもある。