許す、という報復

 

相手に怒りを感じる時、大抵の場合、そいつを張り倒すことは許されない。

言葉による攻撃?その後のことを考えれば損に決まってる。

相手との関係性の修復は、その一瞬の破壊の何倍手間なことだろう。修復なしに相手が敵になればもっと面倒なのだし。

 

要するに相手に怒りを覚えても、敵意をあらわにすることは損なことばかり。

敵意を隠してこそ、物事は円滑に進む。

しかし敵意を隠すことは大抵の場合、大なり小なり己の尊厳を傷つける。

罵倒して張り倒したい相手を前に、牙を抜かれた道化の顔を向けねばならぬとは。

それは虚勢されたも同然、マウント取られ放題、罵倒され放題、己の尊厳は血の涙を流そうか。

 

昇化されることなく、くぐもりゆく怒りの念は、もはやあなたの顔面の青すじをブチきらすこともあるだろう。

怒りを何とか抑えても、私たちはしばしば押し黙り、険悪さをあらわにすることもあるだろう。

微かなる怒りの表出によって重たくなりゆく空気。淀んだ空気の読み合いは、結局相手の気分を損なわせて怒りの連鎖を生む。

しかし怒りにわが身を滅ぼすよりは、そして相手との全面的な衝突をするよりは、険悪さを選ぶ人間は決して愚かとも言えまい。

 

泥沼ですがる藁のごときその陰険さによって、何かしらの復讐を果たすことは可能だろうか。

何物も産まぬその陰険さに、かすかにでも生産性を与えることはできまいか。

 

愛読書のどっかに書いてあった言葉がある。

「最も高貴な復讐は、許すことである」

それは要するに、相手に対する執着の一切を払い退け、もはや無関心の次元に昇華させることなのだろう。

 

誰が靴の中の小石に復讐を誓うであろうか。

誰が真夏のけたたましい虫どもへの怒りを讃えるであろうか。

突然の通り雨、道のぬかるみ、湿った服が気になるのなら、屋根や傘を求めるほかない。天に呪詛を唱えて何を得るというのか。

 

怒りや怨念も、相手に対する執着の一つなのである。許すこと、つまりは相手への執着を捨てることが「復讐」とは。

恐ろしい言葉である。

 

ただ己が不運を笑い、彼らを許してやるがよい。