子育て

子育てとは戦いである。何との戦いか。それはまず最初に、自我との戦いである。

いままで、曲がりなりにも己を自由な一個人と信じていた人間は、幼い子どもを前にして、その子が大事に思えれば思える程、個人としての自由のほとんどを捧げなければならない。

目前の子供よりも自己の利益を優先する人間の錯覚している「自由」など、自由の名に値しないのであってみれば、子どもを育てゆく全ての人間は、その愛情の祭壇に己を捧げゆくものなのだろう。

家事、育児、家庭生活において、家族に完全な自己同一を求めることはできない。家庭生活を営むこともまた、程度の差こそあれ自我の滅却を求めるものなのだ。

激しく強い自己追求と子育ては、子どもが幼いうちは特に、併存し得ない。

若き日々、私は放浪欲求、あるいは逃亡欲求が強く、己を縛り付ける環境から逃れ出、己の道を探ってばかりいた。そして故郷を遠くすればするほど、いつも私を呼び戻すのはこの祭壇であった。

もし新しい家庭という存在が私になかったのなら、ほぼほぼどこかでのたれ死んでいただろう。

 


第二にそれは混沌との戦いである。

幼い子供とはすなわち浄福であり、同時に混沌である。

秩序の中に組み込まれて日々をつなぐ我々が、同時に秩序の外側にいる存在を内に宿して、それが叫び、泣き、笑う時間に心を砕く。

この小さく繊細な存在を守ることに日々奔走し、心労し、混沌と対峙する。この秩序に組み込まれがたい不安、それを男たちは太古から恐れ、あれやこれやの理由にかこつけてその役割から逃れ続けてきた。

狩は、戦いは、芸術は、そして仕事は、「男」の第一義だと称して、この混沌を内在する家庭から逃れつつ、子供のかわいさだけを貪ろうとする。

女たちを家庭に閉じ込めて、自分の獲物や成果を自慢して鼻高々に、「養い」の自己犠牲を喧伝してきた。

しかし子育ては危険であり、戦いであり、芸術であり、何よりも尊い仕事である。その尊さ、複雑さ、甚大さを知らずに、秩序と反復の練磨の中に逃げ込む男性は、現代においてやっと、己を振り返りつつある。筋力に勝るテクノロジー、労働の機械化、そして不景気が、男性的なマチズモを打ち砕きつつある。

 


私が心酔し、敬愛する多くの芸術家、文学者も、家庭生活においてはクズ同然の人間なことが多い。

それは、貴族が庶民から富を吸い取って、その犠牲の上に放蕩し、権力や博識、知性、品位を誇れたように、男たちが家庭生活の重荷を女に押し付けた犠牲の上に、その奇跡的な成果を誇ってきたのだと思う。

思想や芸術、あるいは職人芸の尊さと同じ、あるいはそれ以上に、幼子たちの日々の貴重なことよ。

しかしそれは日々の絶望的な反復、うんこやしっこ、鳴き声、わがまま意地張り、風邪菌ウィルス胃腸炎、その他あらゆる大騒ぎに満たされた、パッと見決して誇れるものではない。

しかし幼子一人一人の時間は、あらゆる芸術や思想に勝るものであることを私は信じる。

その目に映る世界、その呼吸、そこに織りなす原初の感情たちは、思想家たちが一万冊の本を読もうが、芸術家が百の大作を生み出そうが、辿り着けぬ奇跡である。

 


第三にそれは協調性との戦いである。

子供を育むこととは、その子供が生きる環境、集団、秩序の細やかな維持、服従、協調を求められる。

その子供が遊び、楽しみ、慣れ親しむ環境と人間たちが、己にとって好きでも嫌いでも楽しくても面倒でも関係なく、とにかくそれを維持しなければならないのである。

福祉、医療という、現在における莫大な恩恵は、同時に我々を定住させ、秩序の中に反復を強いる。強い個人はそこに縛られずに超越を目指すことができた。

しかし小さく弱く、神に等しい幼子を抱えた以上、超越をすて、個をすて、混沌の渦巻くあの大地の上に帰還しなければならない。

 


この共同体、家庭より要請される協調性を前に、常に戦い続けた先に待つものはなんだろう。

この子育てに吸い干された自我は、子育ての落ち着きと共に、再び慈しみ育てなければならないのではないだろうか。

親として、共同体と社会の単なるパーツに成り果て、その渾身の捧げ先に迷い始める前に、かつて滅ぼされた自我を再び見出さねばならないではないだろうか。

協調性と滅我の先に待つ大衆的な日常の反復は、かつて神聖だった、そして生意気になった青少年たちに、軽蔑の眼差しで見つめられる。

その眼差しを悔いるまでには、永い時間を待たなければならないかもしれない。

 

いずれにしても、その戦いの日々に捧げられた自我は、朽ち果てようと、いずれ花を咲かそうと、幼子たちの育つ地の養分となる。それだけでその犠牲は償われて余りある。

『神曲』地獄篇 暗き森にて

 

「だがおまえ、なぜこの苦悩の谷へ引き返すのか?

 なぜ喜びの山に登らないのか、

 あらゆる歓喜の始めであり、本(もと)である、あの喜びの山に?」

(中略)

「見てください獣を、あれに追われて戻ってきたのです。

 先生、狼から私をお助けください。

 あいつがいると、脈も血管もふるえが止まらないのです」

 

河出文庫神曲』地獄篇 平川祐弘訳 より

 

 

 人生の道なかばで、暗き森の中で目覚めたダンテは、絶望の中で「あらゆる道を通して万人(もろびと)を正しく導く太陽の光」の暁光に包まれた丘を登ろうとする。

 しかしそこに現れた三匹の獣に道を阻まれ、「苦悩の谷」へ引き返そうとしたわけだ。

 そこに登場するヴェルギリウスの、単純明快な問いの力強さよ。

 彼、ヴェルギリウスは、ダンテが長く愛情をかたむけてきた作品群の著者であり、彼の師であり、彼の詩人であった。

 

 暁光に包まれた丘を登ろうとするダンテを阻む獣は、いわゆる煩悩とでも言えばいいのだろうか。欲望や惰性、世間体、飢えや傷、病。人はどんなに俗世を忌み嫌おうが、そこから抜け出でるのが簡単ではない。

 そんな絶望の淵でヴェルギリウス、つまりは彼の詩的感性が彼を救いに来る。

 この構造、地獄めぐりをするダンテほどではなくても多くの人に当てはまるのではないだろうか。

 

 私個人の経験則では、仕事や日常生活で巡り合うちょっとした苛立ちや不快感が不思議と尾を引き、やたらと心が乱れる時、大抵の場合は寝不足か野菜不足、そして文学不足が原因である。

 栄養や睡眠が不足すると体のパフォーマンスが落ちるのと全く同じように、善き作品、善き音楽、善き映像に触れずに長期間を過ごすと、私の脳内は悲鳴をあげ始める。

 くだらないことでクヨクヨ悩み、苛立つ。人を恨み、時に呪う。

 そんな時に古くから慣れ親しんだ愛書の一文でも読めば、たちまち心は落ち着きを取り戻す。

 それは深く暗い森の中で苦悩するダンテが、ヴェルギリウスに巡り合うようなものである。

 心を満たし、潤わせる作品を持てず、商業的な刺激や快楽の世界に代替を求めることもまた多い。獣たちに押し戻されたのこの森の中では推奨さえされていることだろう。

 それも悪いことだとは思わない。ただ非常にコスパが良くないと思う。

 あらゆる人々の苦悶を目にし、驚異的な世界を闊歩し、天に昇る前まで、手を取り、言葉をかけ、導いてくれるような師、詩、作品を、一つは持っておきたいものである。

 

ボージャック・ホースマン

f:id:ac178d:20230704142315j:image

 このドラマのテーマとはかけ離れていると思うが、私は90年代に生を受け、その幼少年期を楽園のごとく過ごした。

 90年代の国民的ドラマの主人公として、人気の絶頂を謳歌した馬、ボージャックホースマンの、 "Back in the 90s I was in a very famous TV show~"という、間抜けながら悲哀に満ちたエンディングソングを聴くたび、かつての楽園を外から眺める者の視線が意図されずに重なって、毎度のごとく心が震わされる。

 この馬の話は、一発屋として過去の栄光にしがみついてうだうだしている馬に際どい下ネタや時事ネタを仕込んだブラックコメディである。

 とはいいつつ、かなり悪趣味に見えるこの作品、実はその下劣さの奥にひたすらに文学的なテーマを隠し持っているのが面白い。

  このドラマで最後まで貫かれて描かれる、馬、ボージャックと彼の自叙伝のゴーストライター、ダイアンとの関係性は、自己顕示欲や酒 、セックスとドラッグに溺れた人間が、内面では文学的(あるいは内省的、厭世的、貴族的、創作的)魂を捨てきれず、時にそれを重んじ、愛し、反発し、蔑ろにし、しかしやはり寄り添おうとし続ける、という魂の貴種流離譚とも言えるような、あまりにも切実なテーマの表出を描いているからだ。

f:id:ac178d:20230704141420j:image

 彼の寂しい豪邸に寄生している無職ニートの青年トッドもまた、トッドというくずキャラのみでなく、彼の良心の化身とも言える存在として描かれる。馬ボージャックは彼をどことなく家に置き続け、時に庇護し、時に馬鹿にし、裏切り、打ち捨てる。(ちなみに彼は、のちに社長になったりホームレスになったりしながら、天職のベビーシッターとして楽しそうに赤ちゃんと過ごす)

 俗世間で闇落ちしていく人間が己の良心といかに向き合って来たかを、クズキャラ同士のどうしようもない笑い話の奥に隠し描いているのである。

 時にそこに表出しようとするものが複雑すぎてグダっていることもあるが、このドラマに出てくる多くのキャラが、それぞれに切実なテーマを隠し持っている。それでいて、くず馬が調子に乗ってはその代償を払い転落していくブラックサザエさん的なホームコメディに徹しているところに、このドラマの魅力がある。

 善きもの、美しいものを心に秘めながら、俗世間に飲まれ、欲望に飲まれ、抗い、足掻きつつ、堕落し続ける。そんな転落の中でも、時に美しい花を見いだすこともある。

 楽園を追われた魂の叫びを描き続けるこの作品は、一切を気取らずにひたすら下劣な馬を笑いのめしながら、気づかないうちに我々の心を洗い昇華させてくれる。

 下品で救いようのない馬の中に高尚さを隠すからこそ、多くの人の心に染み渡る。

 我々の心のどこかに潜んでいるかもしれないトッドやダイアンが、このドラマ越しに語りかけてくることもあるのかもしれない。


www.youtube.com

 

ドラマ『ガンニバル』への愛憎

『ガンニバル』公式サイト

 

 ディズニー+で人気を博している話題作『ガンニバル』。

 少し時間のできた夜に試しに1話観てみたのが最後、気づけばシーズン1コンプリートしてしまった。

 なぜこのドラマを目にクマまでつくって観終わってしまったかというと、このドラマが胸糞悪いからである。面白いから全部見たのではない。なんとかして胸のつっかえをとりたかったのである。

 

 しかし悲しい哉。このドラマ、帰着に向かってどんどん進んでいたのに、シーズン1で終わらないのだ。こんな絶望的な内容が宙ぶらりんのままの状態は耐え難い。

 かつてよりその土地を支配する「後藤家」の横暴、村人の陰湿さ、そんなものはドラマとして楽しい要素でしかない。人をたくさん食べてようがそれも別に構わない。それでは何がそんなに胸糞悪いのか。

 

 子供である。舞台の「供花村」では毎年子供を喰っているのである。あと結構頻繁に大人も。

 まじでこの設定が許せねえ。あんな可愛い子たちに、しかも乳幼児にあんな酷いことするか?アメリカンホラーの代表的なモンスターや怪人たちも、大量に人を殺したり拷問したりするけどほぼ子供は殺さないぞおい。どんなしがらみだって悪意だって、あんな幼い子どもたちをあんな地獄に閉じ込めて、痛ぶり殺す世界が、例えフィクションであっても存在していいのか?このドラマ(原作は漫画だけど)のあまたの輝く魅力を掻き消す、現実離れした設定じゃないのか?あまりにも自然に反しすぎてリアリティーを失いきってないか?

 そんな怒りの悶絶の中で、物語の帰着も見れずに今がある。

 

 しかしガンニバル明けの寝不足のまま、朝から家事に仕事に奔走していると、あの絶望的な世界観が、実はそんなに現実離れしたものではないように思えてきたから不思議である。

 

 まず、子どもを毎年儀式的に喰い殺すという絶望はさておき、絶大な力を持つ地元の一族の横暴や、村のスーパーキモいネチネチ上下関係を心底嫌悪しながらも、守るべき娘と家族のために怒りを押し殺して平静を保たねばならないあの感覚。親には誰にでも覚えがある感覚なのではないだろうか。

 あるいは守るべきものがある人間は、その分大きな意義を与えられているが、同じくそのために怯え、弱くならざるを得ないことがあるだろう。

 大きなトラウマを背負う娘に笑顔を取り戻してくれた村の子供達とその環境のために、村人のキモさ、尊大さ、そして暴力に真っ向から反撃できない主人公の姿は、私たちに大きな共感を授けてくれる。

 そして自然すぎて、他の邦画や日本のドラマが不自然に見えてくるほどの会話、セリフ回し、主人公の「実はこいつが一番やばい」感、たまらなく好きです。

 

 そして個を殺し、集団に身を捧げる価値観、閉鎖空間での殺人的な空気支配、道化じみて実はプライドと支配欲の塊の中年男性、犬のような追随者たちのネチネチ忠誠心、家父長制、男尊女卑、法の支配や合理主義に打ち勝つジメジメした忖度不文律、どれをとっても日常ですぐに見つかる光景である。

 四方を川に囲まれた島のような閉鎖空間の供花村は、四方を海で囲まれた日本に重ならなくもない。

 

 そして子供達の幸福度の低さ、受験や就活を通して、その多くは不景気な社会に「出荷」されて使い倒されていく悲しみ。

 慈しみ深い存在や、大切な存在を抱えながら、不安や痛みに満ちた社会の中を歩まねばならない感覚、それはガンニバルのあの世界を観た時の胸糞悪さと、実はそんなに違っていないように感じてしまう。

 

 ということは、この作品は私にとってやっぱり体にいい作品なのかもしれない。現実にある悩み苦しみを映像の中で昇華させて、時に力や知恵を与えてくれる作品なのかもしれない。

 しかしあの暗くてジメジメした洞窟の牢に囚われ、飼われている幼児たちの姿、そして生贄の儀式、あの光景は例えフィクションであっても最悪の映像体験だった。私はあの一連の描写、そして共感も理解もできない子ども喰いの設定を深く憎む。ハンニバルレクター博士みたいに悪魔的な象徴性を帯びていじけ、堕落した大人を食っている存在には遠く及ばない設定だと思う。でも私はシーズン2を見るだろう。主人公が子どもたちを救う姿を観るために。

 

日本文化の闇

 

 中学生ぐらいの頃、エヴァの漫画を読んで死ぬほど嫌な気分になったことがある。その感覚を思い出したのはちょうどこの前、YouTube進撃の巨人の切り抜き動画を見た瞬間である。いっぱい人が食べられておりました。

 あるいは今更ながらアキラやアニメ版エヴァを見た時もだ。

 他にも癖の強い日本の代表作、エンタメ作品、ゲーム作品を挙げ始めればきりがない。

 大きな怪物に呑まれる人間、人体破損、執拗な断末魔、どれもたまらない不快感と同時に、つい人を凝視させ、魅せてしまう欲動がある。処刑映像や人身事故現場を見たがる趣向とでもいうべきか。いや、それだけでは片付けられない何かがある。

 それら世界に名だたる日本の傑作群には、何か共通した趣向がある。

 

 上記作品群はぐちょぐちょドロドロの内蔵が大好きだ。心のどこかで、自分の体も含めたあらゆる生命に不気味さを感じ、それが裂かれ、絶叫し、虚無の肉塊になるのを、変態的に再確認し続けたがっているように見える。

 要するに魂の不在とでもいえばいいのか。その肉体を裂いたり握り潰したりしても、その中には一切聖なるものなどない、という無神論的観念が深く根付いた文化圏独特の意識のようにおもえるのだ。あるいはぐちょぐちょドロドロのどこかに隠れている魂を、グロテスクに弄り探求しているのか。

 近代以降、西洋の哲学者達が必死に否定したり変形させようとした「神」、その「神」の不在などにはとっくに慣れきって、至高の価値観なき混沌世界で、神々や魑魅魍魎と共に歌い、踊ってきた日本人独特の世界観。

 

 そしてアキラなどに特に強く見られることなのだが、そんな特異な世界観が改めて西洋ナイズしようとした世界、トーキョーの世界はどこか錆び付いていびつで空疎で、憂鬱なカビ臭さを漂わせてはいないか。

 

 私は日本の花鳥風月を心より愛する。その文化、風景に畏敬の念を抱く。しかし東京の雑居ビルほど、蛍光灯の下に照らされる薄汚れた廊下の壁紙ほど、私が見慣れ、そして心底嫌悪の念を抱かせる光景はない。

 近代的な合理主義の下に組み敷かれた魑魅魍魎たちが、時に反旗を翻して行進した狸合戦のぽんぽこたちのように、近代の剛金をさび付かせ浸食する湿度がこの国には存在する。

 西洋の価値観に憧れ模倣しながらも、どこか消化しきれずいびつになってしまったものが、鋼鉄のビル群の奥で苦衷の声を漏らしてはいまいか。鳥獣戯画の中に戯れ、楽しげに踊っていたもののけたちが、上記作品群の見せ場で血飛沫とともにいびつに溢れ出てはいないか。そんな感慨を持ってしまう。

 

ゴヤ2

 見るとは、しかし、いったい何を意味するか。

 見ているうちに、われわれのなかで何かが、すなわち精神が作業を開始して、われわれ自身に告げてくれるものを知ること、それが見ることの全部である。

 

ー『ゴヤ Ⅰ スペイン・光と影』堀田善衛

 

 堀田善衛は、作中でいくつものゴヤの作品、その生涯を紹介しながら、彼自身がゴヤに何を「見た」かを表明し続ける。

 私たちはものを「見」、さまざまなことを感じる。感情が反応し、「精神が作業を開始する」。

 例えば見たものに対する「好き」「嫌い」、これも精神かもしれない。しかしほとんど生理反応に近い感情だ。私の中の何がそれを愛するのか。私の中の何がそれを嫌わせるのか。見たものに対する精神の反応を探って行くことは、結局自分自身の内部を見ることにつながる。

 

 

 すなわちわれわれが見る対象によって、判断され、批評され、裁かれているのは、我々自身にほかならない。従って時には見ることに耐えるという、一種異様な苦痛をしのばねばならないことも、事実として、あるであろう。

 一枚の絵を前にして、ある人物は何も見ないかもしれず、またある人はすべてを見るかもしれない。

 

ー『ゴヤ Ⅰ スペイン・光と影』堀田善衛

 

 「見た」ものは何を意味しているか、それは何を求めているか、それをここに至らしめたものは何か。

 精神は常に作業している。しかしその精神の声を聞く耳を持つも持たないもその人次第。堀田善衛のいう「見る」行いは、突然聞いたらくそ面倒臭いものに感じられるかもしれない。しかしせっかく動植物ではなく、精神を備えた「ヒト」として生まれたのに、その精神を放棄して動植物のようにのみ生きることは、とても寂しいことに思える。

 

 時に「見るに耐えるという、一種の異様な苦痛」を避け続けるあまり、精神を見失って、動物的な欲望や精神の混沌に絡め取られて行く人は、決して少なくないのではないだろうか。

 日々の忙しさや惰性によって、自分が何を求め、あるいは何に苦しんでいるかを見失ってしまったことが、私自身にも何度もある。

 あるいは何かの名作を観、聴き、読むとき、それが退屈な苦行、あるいは単なる娯楽で終わることもあるが、その人の心を動かし、昇華させ、生きていく中で向き合わねばならぬ多くの困難を乗り越える友、叡智、武器になってくれることもある。

 

 

『彼女の声』 ラブデスロボット

 

Netflix

 ラブデスロボットシーズン3 『彼女の声』

 奇妙な作品ばかりの「love deth robots」シリーズの中でもずば抜けて「変」だ。

 まず映像がとても美しい、のに変。

 リアルすぎる実写映像のようにも見えれば、一昔前のゲーム映像のようにも見える。誰かの幻覚、あるいは夢の中を覗いているような映像とでも言えばいいのか。

 音も変。急に無音になったりビシバシの雑音を響かせて荒れたり。これには展開上の理由もあるのだが。変。

 そしてなによりも1番変なのがその世界観だ。一体これは何を見せられているのだ、、、そんな不安が最後まで付きまとう。

 小鳥のさえずりと虫たちの声に満たされた美しくも鬱蒼とした森を、装飾を施された美しい重装の騎士団が行進する。

 彼らは森の中で、老いた聖職者たちにかしずき、何か儀式的な忠誠を誓っている。

 そんな中で主人公の騎士。彼は耳が聞こえない。儀式をほっぽりだして川の中で金の破片を拾う。

 それに呼び覚まされたかのように、森の湖からは、宝石に包まれた艶やかな魔物が水面に立ち、踊り狂いながら高音の奇声を叫ぶ。

 奇声を耳にした騎士たちは途端に魔物に魅了され、叫び踊り狂いながら湖の真ん中に立つ魔物の元に殺到する。

 溺れ、殺し合いながら騎士たちが全滅したとき、耳の聞こえない騎士は一人だけ、魔物の声に狂わずに陸に止まっていた。

 その後、魔物は騎士を激しく求め、騎士は死に物狂いで逃げ、しかし魔物のあるものに魅了され、、。

 

 この話、明らかに神話上の魔物「セイレーン」の話なのである。

 美しく妖しい、女性的な自然世界と、重武装の合金に身を包み、統制された男性たちの対比。

 「理性的な」男たちが、妖しい欲望に狂い、求め、自滅してゆく。聖書や神話で頻出する、「誘惑される志高い男(聖者・英雄)たち」、の焼き直しだろう。

ac178d.hatenablog.com

 そのほかにも環境破壊や宗教、恋愛など、深読みはし放題。バグり散らかしているだけに、絶対的な解釈を求める作品では決してないと思う。

 しかし最後の騎士と魔物の狂気に満ちた舞踏を見せられるとき、神話的なテーマを現代的な映像で、美しくグロく、バグり散らかした映像で見せられてきた混乱が、一気に昇華されて感涙を誘う。なんなら何回か泣いている。

 まるで商材のように計算ずくで並べられたエンタメ作品よりは、いびつながらも魅力的な、昔ながらのNetflix作品の方が好きだ。玉石ゴミ混交の中に、たまにとてつもないものを見つけてしまったあのワクワク感、そんなものを思い出させてくれた作品だったと思う。