『神曲』地獄篇 暗き森にて
「だがおまえ、なぜこの苦悩の谷へ引き返すのか?
なぜ喜びの山に登らないのか、
あらゆる歓喜の始めであり、本(もと)である、あの喜びの山に?」
(中略)
「見てください獣を、あれに追われて戻ってきたのです。
先生、狼から私をお助けください。
あいつがいると、脈も血管もふるえが止まらないのです」
人生の道なかばで、暗き森の中で目覚めたダンテは、絶望の中で「あらゆる道を通して万人(もろびと)を正しく導く太陽の光」の暁光に包まれた丘を登ろうとする。
しかしそこに現れた三匹の獣に道を阻まれ、「苦悩の谷」へ引き返そうとしたわけだ。
そこに登場するヴェルギリウスの、単純明快な問いの力強さよ。
彼、ヴェルギリウスは、ダンテが長く愛情をかたむけてきた作品群の著者であり、彼の師であり、彼の詩人であった。
暁光に包まれた丘を登ろうとするダンテを阻む獣は、いわゆる煩悩とでも言えばいいのだろうか。欲望や惰性、世間体、飢えや傷、病。人はどんなに俗世を忌み嫌おうが、そこから抜け出でるのが簡単ではない。
そんな絶望の淵でヴェルギリウス、つまりは彼の詩的感性が彼を救いに来る。
この構造、地獄めぐりをするダンテほどではなくても多くの人に当てはまるのではないだろうか。
私個人の経験則では、仕事や日常生活で巡り合うちょっとした苛立ちや不快感が不思議と尾を引き、やたらと心が乱れる時、大抵の場合は寝不足か野菜不足、そして文学不足が原因である。
栄養や睡眠が不足すると体のパフォーマンスが落ちるのと全く同じように、善き作品、善き音楽、善き映像に触れずに長期間を過ごすと、私の脳内は悲鳴をあげ始める。
くだらないことでクヨクヨ悩み、苛立つ。人を恨み、時に呪う。
そんな時に古くから慣れ親しんだ愛書の一文でも読めば、たちまち心は落ち着きを取り戻す。
それは深く暗い森の中で苦悩するダンテが、ヴェルギリウスに巡り合うようなものである。
心を満たし、潤わせる作品を持てず、商業的な刺激や快楽の世界に代替を求めることもまた多い。獣たちに押し戻されたのこの森の中では推奨さえされていることだろう。
それも悪いことだとは思わない。ただ非常にコスパが良くないと思う。
あらゆる人々の苦悶を目にし、驚異的な世界を闊歩し、天に昇る前まで、手を取り、言葉をかけ、導いてくれるような師、詩、作品を、一つは持っておきたいものである。