日本文化の闇

 

 中学生ぐらいの頃、エヴァの漫画を読んで死ぬほど嫌な気分になったことがある。その感覚を思い出したのはちょうどこの前、YouTube進撃の巨人の切り抜き動画を見た瞬間である。いっぱい人が食べられておりました。

 あるいは今更ながらアキラやアニメ版エヴァを見た時もだ。

 他にも癖の強い日本の代表作、エンタメ作品、ゲーム作品を挙げ始めればきりがない。

 大きな怪物に呑まれる人間、人体破損、執拗な断末魔、どれもたまらない不快感と同時に、つい人を凝視させ、魅せてしまう欲動がある。処刑映像や人身事故現場を見たがる趣向とでもいうべきか。いや、それだけでは片付けられない何かがある。

 それら世界に名だたる日本の傑作群には、何か共通した趣向がある。

 

 上記作品群はぐちょぐちょドロドロの内蔵が大好きだ。心のどこかで、自分の体も含めたあらゆる生命に不気味さを感じ、それが裂かれ、絶叫し、虚無の肉塊になるのを、変態的に再確認し続けたがっているように見える。

 要するに魂の不在とでもいえばいいのか。その肉体を裂いたり握り潰したりしても、その中には一切聖なるものなどない、という無神論的観念が深く根付いた文化圏独特の意識のようにおもえるのだ。あるいはぐちょぐちょドロドロのどこかに隠れている魂を、グロテスクに弄り探求しているのか。

 近代以降、西洋の哲学者達が必死に否定したり変形させようとした「神」、その「神」の不在などにはとっくに慣れきって、至高の価値観なき混沌世界で、神々や魑魅魍魎と共に歌い、踊ってきた日本人独特の世界観。

 

 そしてアキラなどに特に強く見られることなのだが、そんな特異な世界観が改めて西洋ナイズしようとした世界、トーキョーの世界はどこか錆び付いていびつで空疎で、憂鬱なカビ臭さを漂わせてはいないか。

 

 私は日本の花鳥風月を心より愛する。その文化、風景に畏敬の念を抱く。しかし東京の雑居ビルほど、蛍光灯の下に照らされる薄汚れた廊下の壁紙ほど、私が見慣れ、そして心底嫌悪の念を抱かせる光景はない。

 近代的な合理主義の下に組み敷かれた魑魅魍魎たちが、時に反旗を翻して行進した狸合戦のぽんぽこたちのように、近代の剛金をさび付かせ浸食する湿度がこの国には存在する。

 西洋の価値観に憧れ模倣しながらも、どこか消化しきれずいびつになってしまったものが、鋼鉄のビル群の奥で苦衷の声を漏らしてはいまいか。鳥獣戯画の中に戯れ、楽しげに踊っていたもののけたちが、上記作品群の見せ場で血飛沫とともにいびつに溢れ出てはいないか。そんな感慨を持ってしまう。