クレヨンしんちゃんは庶民か

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 しんちゃんがこれほどに人気のある国民的アニメになった理由は何だろう。

 特別な能力もなければ才能もなく、裕福でもないしんちゃんが平凡な毎日を、そのお転婆さ、下品さ、自由さで楽しむ姿。その姿が長きにわたって日本人の心を癒し元気付けてきた。 

 しかし多くの人が薄々感じているように、もはや現代においてしんちゃんは「庶民」ではない。いや、厳密に言えば、彼に与えられた「平凡」な環境は、もはや平凡ではない。

 

 商社の中間管理職であり、郊外に一戸建てと車を持ち、家族4人をその一人の収入で養いつつ、週末には家族サービスを怠らず、健康な心身を維持する父ヒロシはもはや「庶民」ではない。

 何人のサラリーマンが、その健康と正気を保って苛烈なる激務をこなしながら安穏としていられるか。朗らかな同僚と上司に恵まれ、ニコニコと談笑して終業を迎えられるか。

 昇進に伴てかさみゆく軋轢、不文律にまみれた重責、終わりの見えない日々の反復を前に、正気を保っていられるか。

 ミサエもヒマワリも忠犬シロも皆、庶民ではない。

 今や国民が血眼になって疲弊しながら何とか維持し、あるいは夢見ている生活水準を、当たり前のごとく貪って人々を焦燥させる存在なのである。

 

 「平凡」な日常の、「平凡」な家族どうしの戯れ、それこそがクレヨンしんちゃんというアニメ全体を占める至高の価値ではなかったか。

 しかし知らぬ間にリアリティーを失ってしまった彼らは、国民の心から乖離していくばかり。威張り腐った波平にお茶を注ぐフネとサザエさんのごとく、もはや共感を失った旧態家庭になって行くだろう。

 

 しんちゃんの中で繰り返し提示される「平凡な幸福」、それは高度経済成長期やバブル経済の巨大な資本活動を経験した人々にとって過小化された価値に貶められていたのかもしれない。

 ふと振り返れば、世の中には飽くことを知らぬ成長と物質主義が溢れかえっていた。より便利なモノ、より高級なモノ、より新しいモノが溢れ、屈強な日本経済もまた、メディアを通してその国の内外にお祭り騒ぎの様相を呈した。

 そんな世の中において、「平凡な日常」、「平凡な家族」から漏れいでる笑い、そこにある小さな幸福にフォーカスした風景は、至高の物質主義に正気を失いつつあった人々の心に響いたことだろう。

 飽くなき成長への焦燥、浮かれた物質主義に優先される、「平凡な日常」、その素晴らしさの再評価を促したことにこそ、このアニメの人気の秘訣はあったのだとは言えないか。

 

 例えばクレヨンしんちゃん映画の代表作の一つ『オトナ帝国の逆襲』のメッセージを見てみると良い。

 夢と希望にあふれていた「懐かしき」日本文化は廃れ、オトナたちは夢を失い、空虚な毎日を過ごしている。そんな世の中にN Oを突きつけた革命集団イエスタデーワンスモアは、かつての日本を取り戻そうと「懐かしい」芳香を撒き散らし、全国のオトナたちを陶酔させる。

 敵組織の切望に満ちたユートピア思想を打ち倒す正義は、「最も泣ける」シーンとしてお馴染み、ヒロシの臭い靴であったそうな。

 すなわち、みさえとの馴れ初め、しんちゃんの誕生、辛い新人時代の上司への恭順、残業仕事、そして仕事終わりに彼を待つ、家族との微笑ましい団欒の感涙シークエンスである。自転車の後ろから仰ぎ見る父の大きな背中…

 

 秘密結社による理想主義、革命運動などなくとも、ニッポンのユートピアはここにある。この平凡な毎日こそユートピアなのだ…。

 そんな一連のシークエンスに家族の価値を再確認して結束したしんちゃん一家を前に、敵の革命運動は敗れる。大人たちは正気を取り戻す。

 思えばこの映画が傑作となり得たのは、リアリティーを失いつつあるしんちゃん家族へのアンチテーゼそのもののような敵の存在にこそあったのかもしれない。高度経済成長の終わりに現実世界に出現した宗教集団によるテロ行為の悲劇を、我々は実際に知っている。

 

 その他、あらゆるクレシン映画に登場する敵たちが最後に敗れる原因もまた、しんちゃんたち「平凡な」家族の、強固な結束である。

 敵は宣告されるのだ。「何者も、我々家族の素晴らしい日常、そこに生まれる絆の強さに打ち勝つことはできぬ」と。

 種々さまざまな敵を前にして、常にその正義の大義名分は、「平凡な日常」の価値にあったのである。

 

 悲しい哉、もはやしんちゃんとその家族の生活は、平凡ではない。それは大部分の日本人にとって、幾多もの競争の中で、過労と忍耐によって血眼に勝ち取られる生活なのである。

 「凡人ひろし」は、もはや虚構になってしまったのだ。 容易には得られるはずのない「平凡さ」は、取り残された人々に疎外感、焦燥感、あるいは劣等感を与えこそすれ、かつてのように笑いと感動を与えはしないだろう。

 平凡さを仰ぎ見る人々に言いたい。しんちゃんは庶民ではない。出世して過激さや毒舌を抜かれた芸能人よろしく、寂しい時代の遺物なのである。

 虚構の平凡さを仰ぎ見るぐらいなら、己の卑小さを愛したほうがいい。

 その卑小さの中にもまた、忘れられているいくつもの光があるはずだ。かつて平凡だったしんちゃんが、私たちに多くの笑いと感動を教えてくれたのと同じように。