ドラマ『ガンニバル』への愛憎

『ガンニバル』公式サイト

 

 ディズニー+で人気を博している話題作『ガンニバル』。

 少し時間のできた夜に試しに1話観てみたのが最後、気づけばシーズン1コンプリートしてしまった。

 なぜこのドラマを目にクマまでつくって観終わってしまったかというと、このドラマが胸糞悪いからである。面白いから全部見たのではない。なんとかして胸のつっかえをとりたかったのである。

 

 しかし悲しい哉。このドラマ、帰着に向かってどんどん進んでいたのに、シーズン1で終わらないのだ。こんな絶望的な内容が宙ぶらりんのままの状態は耐え難い。

 かつてよりその土地を支配する「後藤家」の横暴、村人の陰湿さ、そんなものはドラマとして楽しい要素でしかない。人をたくさん食べてようがそれも別に構わない。それでは何がそんなに胸糞悪いのか。

 

 子供である。舞台の「供花村」では毎年子供を喰っているのである。あと結構頻繁に大人も。

 まじでこの設定が許せねえ。あんな可愛い子たちに、しかも乳幼児にあんな酷いことするか?アメリカンホラーの代表的なモンスターや怪人たちも、大量に人を殺したり拷問したりするけどほぼ子供は殺さないぞおい。どんなしがらみだって悪意だって、あんな幼い子どもたちをあんな地獄に閉じ込めて、痛ぶり殺す世界が、例えフィクションであっても存在していいのか?このドラマ(原作は漫画だけど)のあまたの輝く魅力を掻き消す、現実離れした設定じゃないのか?あまりにも自然に反しすぎてリアリティーを失いきってないか?

 そんな怒りの悶絶の中で、物語の帰着も見れずに今がある。

 

 しかしガンニバル明けの寝不足のまま、朝から家事に仕事に奔走していると、あの絶望的な世界観が、実はそんなに現実離れしたものではないように思えてきたから不思議である。

 

 まず、子どもを毎年儀式的に喰い殺すという絶望はさておき、絶大な力を持つ地元の一族の横暴や、村のスーパーキモいネチネチ上下関係を心底嫌悪しながらも、守るべき娘と家族のために怒りを押し殺して平静を保たねばならないあの感覚。親には誰にでも覚えがある感覚なのではないだろうか。

 あるいは守るべきものがある人間は、その分大きな意義を与えられているが、同じくそのために怯え、弱くならざるを得ないことがあるだろう。

 大きなトラウマを背負う娘に笑顔を取り戻してくれた村の子供達とその環境のために、村人のキモさ、尊大さ、そして暴力に真っ向から反撃できない主人公の姿は、私たちに大きな共感を授けてくれる。

 そして自然すぎて、他の邦画や日本のドラマが不自然に見えてくるほどの会話、セリフ回し、主人公の「実はこいつが一番やばい」感、たまらなく好きです。

 

 そして個を殺し、集団に身を捧げる価値観、閉鎖空間での殺人的な空気支配、道化じみて実はプライドと支配欲の塊の中年男性、犬のような追随者たちのネチネチ忠誠心、家父長制、男尊女卑、法の支配や合理主義に打ち勝つジメジメした忖度不文律、どれをとっても日常ですぐに見つかる光景である。

 四方を川に囲まれた島のような閉鎖空間の供花村は、四方を海で囲まれた日本に重ならなくもない。

 

 そして子供達の幸福度の低さ、受験や就活を通して、その多くは不景気な社会に「出荷」されて使い倒されていく悲しみ。

 慈しみ深い存在や、大切な存在を抱えながら、不安や痛みに満ちた社会の中を歩まねばならない感覚、それはガンニバルのあの世界を観た時の胸糞悪さと、実はそんなに違っていないように感じてしまう。

 

 ということは、この作品は私にとってやっぱり体にいい作品なのかもしれない。現実にある悩み苦しみを映像の中で昇華させて、時に力や知恵を与えてくれる作品なのかもしれない。

 しかしあの暗くてジメジメした洞窟の牢に囚われ、飼われている幼児たちの姿、そして生贄の儀式、あの光景は例えフィクションであっても最悪の映像体験だった。私はあの一連の描写、そして共感も理解もできない子ども喰いの設定を深く憎む。ハンニバルレクター博士みたいに悪魔的な象徴性を帯びていじけ、堕落した大人を食っている存在には遠く及ばない設定だと思う。でも私はシーズン2を見るだろう。主人公が子どもたちを救う姿を観るために。