模様替えの怪

 

 都内での引越しが多い。家賃が高いから、その五千円から一万円の間に凝縮されている細々とした条件を吟味しなければならない。

 何よりも広さ、木造が鉄筋コンクリートか、窓はいくつあるか、駅までの距離、周囲の景色、図書館やスーパーの有無といった絶対条件が、数千円の違いによって激変する。

 ひいては台所は広いか、水周りが妙に昭和じみて哀愁を誘わないか、幽霊は出るか、隣人がモンスターか否かといった、無限にも等しい条件を鑑みる。

 しかし良い物件はすぐ埋まる。それに少しでも欲をかけば値段が激増するから、自然に選択肢は狭まり、あとは運次第。不動産屋さんの機嫌を損ねないように気を使いつつ、色々とわがままを言っているうちに成り行きでさらっと決まってしまう。

 気分やタイミング、内覧時の天候、あるいは不動産屋に叩いた軽口の一つで、部屋との出会いの運命は大きく左右されているはずである。なのに半年ぐらい住んでみるといつも、その部屋以外の選択はあり得なかったように思うのが不思議だ。そのなり行きの選択に、どれほど細やかな必然が伴っていたかに驚くのである。

 

 個人的な趣向で、玄関のドアを開けた瞬間にわっと空間が広がる部屋が好きである。天井が高くて、部屋の隅々までを見渡せる空間。それは時に正方形に開けた間切りのない1DKであったり、横長に広がりを見せる2DKだったりする。

 そんな空間のどこかに、まず大きな机を置く。座り心地の良い椅子も置く。書斎の完成である。そして最近買ってしまったばかりの、まるでどこぞの予備校にでもおかれるような巨大なホワイトボードも置く。強力なマグネットで絵画のポスターを貼ったリ、混沌とした思考を書き出して整理したり、目標や早急の課題を書き出すのだ。書斎が華やぐ。

 次にベットを置く。ベットの上か横に、植物と目覚まし時計をおき、寝室の完成。そしてここで、いつもお決まりの悩みのたねに出くわす。

 冷蔵庫をどこに置くべきか。

 こんなにも巨大で常に電力を求める存在でありながら、台所の周囲に置き所は限定されている。台所と言っても、私の借りる部屋に台所とリビングの間切などない。この冷蔵庫をどこに置くかによって、私の生活環境は激変するのである。

 まるで結界を有するかのように、冷蔵庫の置かれた周囲数メートルは、たちまち台所スペースとなる。そこはものを買い込み、煮炊き、食い、消化する場所である。それ以外に何をしようもない。

 しかし欲を言えば本棚も置きたいし、映画鑑賞スペースも欲しい。寝室に近すぎると冷蔵音は夜の静寂をかき乱す。うるさいから遠くにいてもらいたい。

 この三代環境。書斎、寝室、台所が、都内の狭い賃貸空間の中で、毎度熾烈なせめぎ合いを織り成すのだ。

 台所の支配を極力小範囲に抑え、書斎の拡大を試みる。しかし台所を狭くしすぎるとたちまち自炊の気力は萎え果て、食費が高騰するか栄養状態が低下する。寝室をむげにすれば結果は明白だろう。睡眠ほど重要なものはない。書斎もまた然り。読まず、書かず、時間のみ過ぎゆけば生が薄まる。

 この繊細な力関係の間で机が窓側から部屋のど真ん中に移動したり、ベットが西向きになったり東向きになったりぶっ壊れたり、ホワイトボードが邪魔になって捨てようと思ったけどやっぱりやめたりと、数ヶ月ごとに家具同士、熾烈な縄張り争いを繰り広げる。

 

 そんな日々の闘争を促す、ある訪問者の存在がある。私が自堕落になったり、よからぬ人々と付き合い始めたり、相性の悪い趣味を持ち始めたりするとき、まるでそれらを見定めたかのように、彼らは訪れる。仄暗い押入れの奥から、家具たちの暗がりの中から、あるいは豪放磊落にも、台所のざらついたステンレスの上に、あの黒光りした悪魔が出現するのである。

 連続と停滞の中に麻痺した間抜け面で、長々とテレビを見ていたり、お腹が重くなってしょうがない資質まみれのスナックをほおばってうたた寝していたり、何日かぶりに部屋に帰ってきたり。

 日々の連続。停滞し、行き所を失ったみずみずしい何かが、濁り、沈滞し、黄昏の中に消えゆく。私は疲れている。全てに飽き飽きしている。理性に重たい靄がのしかかる。

 そんな横づらをひっぱたくように、冷たい緊張が全身を満たすのだ。ふっと視界のすみに、不気味な影が横切った時にはもう遅い。そうだ、遅過ぎるのだ。暗い予感の中に、あのGの文字が浮かぶ。

 凍りついた体をゆっくりと傾けて、その予感の方へ目を傾けると、やはりいるのである。奴が。

 時間が止まり、その衝撃に身を凍らした者はただ、虚空を見上げる他ない。その沈着な表情に全てが矛盾するような、まるで日常では発されることのない奇声が喉を震わす。鼓膜を通して鳴り響くその奇声に、改めて驚きと耐え難い自己嫌悪を感じたところで、その恐怖の存在とのファーストインパクトは遂げられた。もうよい。結局、やるしかないのだ。

 そっと秘密のロッカーから毒薬を取り出し、逃げ惑う悪魔の一挙一動に怯え飛び跳ねつつ、奴が暗がりに逃げ込んだが最後。室内全体が煙くなるほど大量に毒の濃霧を噴射し、仰向けになってジタバタとあがく奴に1ミリでも憐れみを感じることはない。その黒い光沢を覆い尽くすほどの毒の厚塗りでオーバーキルである。

 冬物の手袋を装着し、なんでもいいから棒を見つけ、その先にガムテープを筒状にはる。そして今なお弱々しくあがく黒い悪魔の感触を棒先に感じて慄然としながらも、その体を窓の外に投げ捨てるのだ。

 一連の悪魔祓いが済んでいつも(もし途中で逃げられでもしたら最後、私は早急に引っ越さざるを得ない)、この疑問に出くわす。

 かくも奴を恐れ、嫌悪させるものは何か。

 

 昔からの家の習わしで、家中を這い回るクモは殺さない。だからか奴らが出現しても、不思議と全く動じない。むしろ我が領域に侵入を試みる別の化け物どもを退治してくれることだろう。

 相当でかい南米クラスのクモにでも出くわさぬ限り、奴らは恐ろしくないのだ。それでは一体なぜ、同レベルにグロいはずのGのみがかくも深甚なる心的打撃を強いるのであろうか。

 そんな疑問を残したまま、悪魔祓いの後はいつも、模様替えを行う。

 部屋の隅々までが清潔に片付けられ、机やベット、冷蔵庫の位置が激変する。

 

 幾年もの闘争を経て、再び新たにされた整った室内を眺め、お茶をすすっていたある日曜日の朝、東から新たにされた陽光が書斎に並ぶ愛しい本と文具たちを照らし、きらびやかな光沢で私を誘った。その時、私は気づいたのだ。この部屋、この空間は、私の脳内そのものなのだと。

 Gへの極端な嫌悪も、それで説明がつくのだ。自己によって秩序立てられ、選択、選別された限定空間に、自己の意志と秩序に全く関係なく、自由に這い回る存在がある恐怖、そして不快感。そうか。これであったのだ。

 

 現在住んでいる部屋は左右それぞれに均等な大きさの空間があり、その機能にも確固たる棲み分けが発生する。いずれかの極に理性が宿り、その反対の極には情動が渦巻く。時期によっていずれかの極にて安逸を貪り、その反対の極はただ埃をかぶっていることが多い。その変容はまるで活性の時を異にする我が右脳左脳のごとき克明な棲み分けに思える。

 

 押入れもまた面白い。それは潜在意識の空間とでも言えようか。

 そこでは不要になりながら捨てるに捨てられなかったもの、日常ではあまり機能しないが、たまに使われるものがぶち込まれている。この場所を乱雑に放置しておくと、大事なものはその混沌の中で姿をくらまし、部屋の中で不要になったものを詰め込みたくもスペースは足りなくなり、ある季節の変わり目の日、布団を出そうとしたときに雪崩となって我が身を襲う。

 あるいは過去にしまわれた恥辱に満ちた手紙や写真が行き場を失って混沌の中に混じり合い、求めてもいないときに姿を表してきゃーとさせる。

 あるいは呪わしきGが住み着き、繁殖せんと試みるのも押入れである。Nなどは問題外。

 ホラー映画にしても恐怖の潜む場所は常に地下室か天井裏。要するに特大の押入れ空間と言えよう。そこに宿るであろう特大のGないしNは、ホラー映画の主題になって然るべき混沌の使いであろう。

 そう、模様替えを繰り返した果てに目の前に広がる限定空間は、いつも私の価値観、無意識下の選択、快・不快の表出であるわけである。その空間は私の脳内の箱庭なのだ。

 

 最近もまた、私は悪魔と一線を交え、激戦の末に勝利した。木造の壁に寒さの染み渡るのがどこか心細い、白い息の出る冬の日であった。

 しかし私は悪魔が出て仕方なき生活を送っていたのだ。

 幾多もの模様替えが、奴らに催されて行われたものであったとすれば、奴らは我が空間、我が家具たちの送りたもう何がしかの使いであって、悪魔と呼びすてられてこそ、その怨念も安まるところを知らず私を苛むであろう。

 今回に限って私は手袋もせず棒も使わず、テイッシュ一枚、やつの体を包んで、トイレの水に流した。

 この大都会の中に薄壁一枚を隔てて、その限定空間に不安な個を育むしかない我々は、このGとの邂逅、あるいは対話無くしては、ただその林立するビル群と住宅群の渦に、その日常からもたらされる絶えざるささやきと雑音に、ただ従い呑まれぬほかないのではないか。おおGよ。

 

 私は巨大なホワイトボードがなるべく窓を隠さぬよう部屋の端っこに位置を変えた。めちゃくちゃ大きな押入れの扉を取っ払ってその空間にテレビをぶち込み、美しいシンメトリーを誇る映画鑑賞スペースを作り出した。

 幾何学的な棚の一部を外してそこに冷蔵庫をぶち込み、周りには観葉植物やおしゃれアロマ、なんの役にも立たないモニュメントを飾り立てた。

 玄関に入ってすぐ横の広い無駄なスペースに本棚を置いた。出かける時、帰ったときすぐに目に入るのは愛しい本たちだ。

 そして書斎はベットのすぐ横。今や寝室は書斎なのだ。

 

 またGが出るというなら私は戦おう。そのグロテスクな見てくれへの衝撃は半ば薄まり、身勝手な愛おしさすら覚えている今のことだ。嫌悪と恐怖を乗り越えて、手厚く葬ることも厭わぬ。

 しかしGよ。再び新たにされたこの部屋は、私の心をくすぐる。薄い壁の内に人知れず新たにされたこの光景は、日常を超えてあらゆる憧れを誘う。このあどけない喜びに心躍る今だけは、どうか現れないでほしい。再び会うその日まで、Gよ、安らかに眠れ。