東京を離れて

 

 千葉の郊外から東京の学校に通っていた日々、満員電車の路線図を眺めながらよく想像していたことがある。

 まるでその中心に通い詰める路線の数々は、体内に張り巡らされた動脈のようだと。

 血液として酸素と栄養素を搾り取られ、疲れ果てた我々は、やがて静脈に流されて帰路に着く。東京に集中された路線図は、その血液を集中された巨大な脳みそそのものなのだと。

 あるいはそこで知識や経験や給料を得て、それぞれの地に栄養と酸素を運び戻す心臓の如くでもあったのかもしれない。

 いずれにしてもその路線図は、そこに乗り運ばれる私たちの個性を剥ぎ取って、集団性の中で形作られた巨大な存在に生命を捧げるように迫る、現代社会における血の祭壇かのように映ったのだ。

 まあ青年によくありがちな厭世観ではあったのだが。

 

 しかしいざ東京そのものに暮らし始めた日々、千葉の郊外に比べて東京に特別なところはなかった。

 むしろ建物は狭ぜまとして窮屈に敷き詰められ、住宅もまた同じ。凄まじい土地の価格に呼応するように無駄なく何かしらが敷き詰められていた。

 古いもの、効率性の失われたもの、人々の注目を失ったものは容赦なく打ち壊され、新しいものに建て替えられていった。家もまた古い日本家屋は壊されては細かい分譲になった。

 そんな土壌で古より受け継がれてきたような土着的なもの、生の息吹に満ちた古い地霊は、いたずらに跳ね上がる土地の価格の下に窒息していた。

 

 しかし利便性に敷き詰められるアスファルトとコンクリートの世界だからこそ、その中に保たれた広さ、古さの豪奢は余計に人の目を引くものである。

 特に東京の都心の中で広さ、古さを保ち得るもの、それこそ日本の頭脳であり、心臓であった。

 その一つでもある大学に通っていた私が東京に住むことを渇望したのは、中身を運び、吸われ、また中身を得ては運び疲れる日々に、己が主体性を取り戻したかったからかもしれない。

 遠方から東京に通わなくても良い人間、その頭脳、心臓の一部として地に一体化することで、己が自我を取り戻せるような気がしていたのだろうか。

 まるで近所の公園のように、卒業した大学の図書館に足を運んだ日々、若さに躍る学生と外部の人間たちから結界を張られた静寂の世界、それはかつての貴族や王、そして現代のごく一部の特権を持った者たちにしか味わい得ない、世に秘められた甘み、軽みを与えてくれたものだった。

 

 しかし東京に通う悲しさは、もともと地元で得られていた生が、東京という社会的求心力に奪われる大人の悲しみでもあった。子供らしい喜び、人間の当たり前の生は、東京でなくても得られるというのに。

 当たり前の恵みから引き離され、孤立した個人として主体性をもち、通勤通学の者たちを憐んでいたつもりでいて、彼らが帰るべき地の豊穣を忘れていただけなのかもしれない。

 それが東京を模した灰色の郊外だったとしても、常軌を逸した価値を付されていないその土地の間からは、何かしら人間的な文化が芽吹いていた。

 

 

 

 しかしいざまたこの東京から離れるとなると、一抹の寂しさを覚えるものである。

 大学図書館国会図書館の静けさに思考を透かし、北の丸公園にひっそりと繁る森を抜け、人気のない丘から千代田の均整の取れた街波を眺め、上野の文化財に親しみ、池袋や渋谷のお祭り騒ぎのごとき雑踏に混じる。

 新宿の小さな映画館や神保町の片隅で憧れの知性と出会い、時に名声ある人々と隣り合う。

 日本中から人を惹き集めた上で築かれ、保たれた文化から距離を置かねばならぬのは、やはり寂しい。

 

 しかし幼子は広さを求め、繋がりを求め、自然の中での呼吸を求める。いかなる東京の喜びも誇りも、純朴たる生の喜びを失った大人の足掻きであり、子供たちと共に分かち合うには10年の時を待たなければならない。

 それにだ、もし東京の刺激が懐かしいのなら、スマホでも見とけばあっという間に付くよね。今どきは。

 

『その日東京駅五時二十五分発 』を巡って

親になった者として二次大戦下の話を読むのは辛く悲しい。

 

戦時中に踏み躙られた文化や人命のことばかりに打ち震えてきたが、そこに確かに存在した子供たち、そして彼らを思う母、そして一部の善き父たちが犠牲になったことを微かにでも感じるだけで、文字や映像から膨甚な痛みと苦悩が溢れ出す。

 

実在に悩んでいた若き日々、窮屈な日常の苦悩を溶かす戦火の悲惨は、善き知恵、善き刺激として私を長く支え導いた。しかし幼き子供の無限の命の価値を知った今はただ、それを踏み躙る歴史の暴力に、ひたすら湧き上がる痛みと苦悩に、途方に暮れてしまうばかり。それが止まるところを知らないままに筆をとった。

 

 

しかし幼子の命、彼らを慈しむ親の思い、それはやはり価値を失い得ない奇跡である。

 

彼らのすべての時間には価値がある。その先にある、あるいはあり得た膨大な価値を思う以前に、それが存在したこととそのものの奇跡に、私は心から感謝と敬服の意を示したい。

 

掛井中尉の魂に複写された写真もまた、主人公と同じ空の下、失われざる光明となるのだろう。

 

 

 

善き小説は善き主観を与えてくれる。

この小説を読みながら長距離を電車移動したのちの日に、私は母に伝えたものだった。

この小説での、どこか鋭利に本質を見つめていながらも、ぼんやりとした思考と態度で大戦末期の激動を生きた主人公、彼の与えてくれた視線、主観は、不安神経症とまで言える敏感すぎた私に、丸みのある主観を与えてくれたのを覚えている。

しかし小説内に実は繊細に描かれていた、焼けた町の裸足の少女、「ああ、」と言いながら煙立つ街を見つめ降りてゆく女性、目前に座る少年に隣る母の虚無を読み返した今、上記の感慨を、大きく塗り替える経験をしたのだった。

そもそも親となった人間は、主観に悩むことから半ば強制的に卒業させられるのだ。

それゆえに視野狭窄に陥り、常に明日に追われ、時間に隷従する日々、やはり善き小説は、心に潤いを与えてくれるものである。

 

マルメラードフの語るもの

 

 マルメラードフという人間をご存知か?

 『罪と罰』に登場する正真正銘のクズ人間である。

 家の金を抜き去って妻子を飢えさせ、極貧に狂った妻が子供を虐待しているのを知りながらも、マルメラードフは酒に酔って寝ている。

 その妻子の面倒を見ている心優しい十代の娘がいる。彼女は荒んだ継母の世話をし、泣きじゃくる継母の子供たちを食べさせるために体を売っている。

 その娘の金すらも彼は無心するのだ。そして何に使うかといえば当然酒である。そしてマルメラードフは酔って寝ている。

 マルメラードフは人間と呼ぶにも値しないクズ人間である。

 ドストエフスキーはどうしてこうまでもクズな人間を人として描けるのだろうか。

 

 彼の悲しみすらも失った放心、酩酊状態の深淵の淵に垣間見えるもの、人間であることの微かなる残渣のようなものをドストエフスキーは余すことなく語るのである。

 家族への強い愛、微かなる学識と知性、そして強すぎるプライド。それらがありながらにして、マルメラードフは酔って寝ているのはなぜなのか。

 彼、あるいはドストエフスキー作品にしばしば登場する、誇り高く、破滅性に満ちたクズ人間は何を体現しているのか。

 

 それは多かれ少なかれ、現代を生きる我々そのものなのだと思う。

 誤解なきように伝えたいのは、現実にマルメラードフ規模のクズ人間はそう多くはないと思う。

 しかし何かを裏切り続けながらもがき苦しんでいる人間、仕事や生活のもたらす辛酸一滴一滴に、少しづつ溶かされてはついに狂ってしまった人間、狂いの中で己にとって最も大切なものを傷つけている人間、それは多かれ少なかれ、近現代を生きる我々そのものであると思われてならない。

 

 言い方を変えれば、マルメラードフが踏みにじった家族、それは現実に近代化やロシアの帝国主義時代に苦しんだ一般庶民の姿であると同時に、己自身の中で蔑ろにされた「魂」の体現そのものであると思うのだ。

 その「魂」を人間性、愛情、理性、教養、情緒と言い換えられもするだろうか。いや、それは人によって異なるものだろう。

 

 己の中に何か美しいもの、崇高なもの、尊いものを抱えながらも、それを大事にすることができず、快楽や惰性、愚かさ、ひいては酩酊状態に引き落とされた日常にあって、絶えずそれらを裏切り続けなければならないクズ人間の悲しすぎる人間性

 

 著者、ドストエフスキーにとっても、歴史的大著の作家であり、あえてここで語り直す必要もないほどの偉大なる彼の才能を持ちながらにして、彼は常に酒や博打、あるいは行きすぎた思想的熱狂に身を持ち崩した。

 そのあまりにも鋭利な感受性、あるいは病に疲れ、凄まじい自意識に悩まされながら消耗し、怠惰になってしまった彼自身の姿そのものが、マルメラードフなのではないか。

 

 宗教的な生の指標や村社会的な集団性の中にあった人々が、突如それらを剥奪され、近代社会の中で「個人」として生きなければならなかった時代、その自由と混沌の中で育まれる光と闇。

 彼の破滅的な、あるいは停滞的な生活で蔑ろにされ、内側でもがいている何か、それらは彼の作品の中で別の姿をとって化けて出るのである。

 すなわち極貧の中で泣き叫ぶ子供や、怒り狂う妻、健気にそれを耐え忍び続け、赦し続ける聖者となって、彼を苛むのだ。

 

 

 『カラマーゾフの兄弟』の第三部に、その傷つきやつれた魂たちへの想いを綴ったようにしか思われない「夢」の描写がある。それは「餓鬼(がきんこ)の夢」として描かれている。

その夢の中で彼は問う。

「教えてくれ、どうしてああやって、焼け出された母親たちが立っているのか、

どうしてみんな貧しいのか、

どうして餓鬼はあわれなのか、

どうして草原は空っぽなのか、

どうして女たちは抱き合って口づけしないのか、

どうして喜びの歌を歌わないのか、

どうしてああして、黒い不幸で、ああも黒くなっちまったのか、

どうして餓鬼に、乳を飲ませてやれないのか?」

 

ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』光文社新訳文庫 亀山郁夫

 

 夢を見たドミトリー(カラマーゾフ家の長男)は破滅と絶望の淵へ爆走するまさに真っ只中に、子どもと母親がこれ以上泣かずに済むように、今すぐ何かしてあげたいと願うのだった。

 

 混乱と絶望の中にあって、悲しみと狂気に満ちてはいたクズ人間たちの中にも、餓鬼(がきんこ)に乳を与え、喜びの歌を歌った人間、例えばそれを文として、物語として、芸術・思想として昇華させた人間、つまりはドストエフスキー本人のことを思うと、この近代の殺伐の中にも、数多くの奇跡が生まれていることを知るのである。ドストエフスキーという偉大なクズ人間もまた、多かれ少なかれ今を生きる我々そのものなのだ。

 

子育て

子育てとは戦いである。何との戦いか。それはまず最初に、自我との戦いである。

いままで、曲がりなりにも己を自由な一個人と信じていた人間は、幼い子どもを前にして、その子が大事に思えれば思える程、個人としての自由のほとんどを捧げなければならない。

目前の子供よりも自己の利益を優先する人間の錯覚している「自由」など、自由の名に値しないのであってみれば、子どもを育てゆく全ての人間は、その愛情の祭壇に己を捧げゆくものなのだろう。

家事、育児、家庭生活において、家族に完全な自己同一を求めることはできない。家庭生活を営むこともまた、程度の差こそあれ自我の滅却を求めるものなのだ。

激しく強い自己追求と子育ては、子どもが幼いうちは特に、併存し得ない。

若き日々、私は放浪欲求、あるいは逃亡欲求が強く、己を縛り付ける環境から逃れ出、己の道を探ってばかりいた。そして故郷を遠くすればするほど、いつも私を呼び戻すのはこの祭壇であった。

もし新しい家庭という存在が私になかったのなら、ほぼほぼどこかでのたれ死んでいただろう。

 


第二にそれは混沌との戦いである。

幼い子供とはすなわち浄福であり、同時に混沌である。

秩序の中に組み込まれて日々をつなぐ我々が、同時に秩序の外側にいる存在を内に宿して、それが叫び、泣き、笑う時間に心を砕く。

この小さく繊細な存在を守ることに日々奔走し、心労し、混沌と対峙する。この秩序に組み込まれがたい不安、それを男たちは太古から恐れ、あれやこれやの理由にかこつけてその役割から逃れ続けてきた。

狩は、戦いは、芸術は、そして仕事は、「男」の第一義だと称して、この混沌を内在する家庭から逃れつつ、子供のかわいさだけを貪ろうとする。

女たちを家庭に閉じ込めて、自分の獲物や成果を自慢して鼻高々に、「養い」の自己犠牲を喧伝してきた。

しかし子育ては危険であり、戦いであり、芸術であり、何よりも尊い仕事である。その尊さ、複雑さ、甚大さを知らずに、秩序と反復の練磨の中に逃げ込む男性は、現代においてやっと、己を振り返りつつある。筋力に勝るテクノロジー、労働の機械化、そして不景気が、男性的なマチズモを打ち砕きつつある。

 


私が心酔し、敬愛する多くの芸術家、文学者も、家庭生活においてはクズ同然の人間なことが多い。

それは、貴族が庶民から富を吸い取って、その犠牲の上に放蕩し、権力や博識、知性、品位を誇れたように、男たちが家庭生活の重荷を女に押し付けた犠牲の上に、その奇跡的な成果を誇ってきたのだと思う。

思想や芸術、あるいは職人芸の尊さと同じ、あるいはそれ以上に、幼子たちの日々の貴重なことよ。

しかしそれは日々の絶望的な反復、うんこやしっこ、鳴き声、わがまま意地張り、風邪菌ウィルス胃腸炎、その他あらゆる大騒ぎに満たされた、パッと見決して誇れるものではない。

しかし幼子一人一人の時間は、あらゆる芸術や思想に勝るものであることを私は信じる。

その目に映る世界、その呼吸、そこに織りなす原初の感情たちは、思想家たちが一万冊の本を読もうが、芸術家が百の大作を生み出そうが、辿り着けぬ奇跡である。

 


第三にそれは協調性との戦いである。

子供を育むこととは、その子供が生きる環境、集団、秩序の細やかな維持、服従、協調を求められる。

その子供が遊び、楽しみ、慣れ親しむ環境と人間たちが、己にとって好きでも嫌いでも楽しくても面倒でも関係なく、とにかくそれを維持しなければならないのである。

福祉、医療という、現在における莫大な恩恵は、同時に我々を定住させ、秩序の中に反復を強いる。強い個人はそこに縛られずに超越を目指すことができた。

しかし小さく弱く、神に等しい幼子を抱えた以上、超越をすて、個をすて、混沌の渦巻くあの大地の上に帰還しなければならない。

 


この共同体、家庭より要請される協調性を前に、常に戦い続けた先に待つものはなんだろう。

この子育てに吸い干された自我は、子育ての落ち着きと共に、再び慈しみ育てなければならないのではないだろうか。

親として、共同体と社会の単なるパーツに成り果て、その渾身の捧げ先に迷い始める前に、かつて滅ぼされた自我を再び見出さねばならないではないだろうか。

協調性と滅我の先に待つ大衆的な日常の反復は、かつて神聖だった、そして生意気になった青少年たちに、軽蔑の眼差しで見つめられる。

その眼差しを悔いるまでには、永い時間を待たなければならないかもしれない。

 

いずれにしても、その戦いの日々に捧げられた自我は、朽ち果てようと、いずれ花を咲かそうと、幼子たちの育つ地の養分となる。それだけでその犠牲は償われて余りある。

『神曲』地獄篇 暗き森にて

 

「だがおまえ、なぜこの苦悩の谷へ引き返すのか?

 なぜ喜びの山に登らないのか、

 あらゆる歓喜の始めであり、本(もと)である、あの喜びの山に?」

(中略)

「見てください獣を、あれに追われて戻ってきたのです。

 先生、狼から私をお助けください。

 あいつがいると、脈も血管もふるえが止まらないのです」

 

河出文庫神曲』地獄篇 平川祐弘訳 より

 

 

 人生の道なかばで、暗き森の中で目覚めたダンテは、絶望の中で「あらゆる道を通して万人(もろびと)を正しく導く太陽の光」の暁光に包まれた丘を登ろうとする。

 しかしそこに現れた三匹の獣に道を阻まれ、「苦悩の谷」へ引き返そうとしたわけだ。

 そこに登場するヴェルギリウスの、単純明快な問いの力強さよ。

 彼、ヴェルギリウスは、ダンテが長く愛情をかたむけてきた作品群の著者であり、彼の師であり、彼の詩人であった。

 

 暁光に包まれた丘を登ろうとするダンテを阻む獣は、いわゆる煩悩とでも言えばいいのだろうか。欲望や惰性、世間体、飢えや傷、病。人はどんなに俗世を忌み嫌おうが、そこから抜け出でるのが簡単ではない。

 そんな絶望の淵でヴェルギリウス、つまりは彼の詩的感性が彼を救いに来る。

 この構造、地獄めぐりをするダンテほどではなくても多くの人に当てはまるのではないだろうか。

 

 私個人の経験則では、仕事や日常生活で巡り合うちょっとした苛立ちや不快感が不思議と尾を引き、やたらと心が乱れる時、大抵の場合は寝不足か野菜不足、そして文学不足が原因である。

 栄養や睡眠が不足すると体のパフォーマンスが落ちるのと全く同じように、善き作品、善き音楽、善き映像に触れずに長期間を過ごすと、私の脳内は悲鳴をあげ始める。

 くだらないことでクヨクヨ悩み、苛立つ。人を恨み、時に呪う。

 そんな時に古くから慣れ親しんだ愛書の一文でも読めば、たちまち心は落ち着きを取り戻す。

 それは深く暗い森の中で苦悩するダンテが、ヴェルギリウスに巡り合うようなものである。

 心を満たし、潤わせる作品を持てず、商業的な刺激や快楽の世界に代替を求めることもまた多い。獣たちに押し戻されたのこの森の中では推奨さえされていることだろう。

 それも悪いことだとは思わない。ただ非常にコスパが良くないと思う。

 あらゆる人々の苦悶を目にし、驚異的な世界を闊歩し、天に昇る前まで、手を取り、言葉をかけ、導いてくれるような師、詩、作品を、一つは持っておきたいものである。

 

ボージャック・ホースマン

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 このドラマのテーマとはかけ離れていると思うが、私は90年代に生を受け、その幼少年期を楽園のごとく過ごした。

 90年代の国民的ドラマの主人公として、人気の絶頂を謳歌した馬、ボージャックホースマンの、 "Back in the 90s I was in a very famous TV show~"という、間抜けながら悲哀に満ちたエンディングソングを聴くたび、かつての楽園を外から眺める者の視線が意図されずに重なって、毎度のごとく心が震わされる。

 この馬の話は、一発屋として過去の栄光にしがみついてうだうだしている馬に際どい下ネタや時事ネタを仕込んだブラックコメディである。

 とはいいつつ、かなり悪趣味に見えるこの作品、実はその下劣さの奥にひたすらに文学的なテーマを隠し持っているのが面白い。

  このドラマで最後まで貫かれて描かれる、馬、ボージャックと彼の自叙伝のゴーストライター、ダイアンとの関係性は、自己顕示欲や酒 、セックスとドラッグに溺れた人間が、内面では文学的(あるいは内省的、厭世的、貴族的、創作的)魂を捨てきれず、時にそれを重んじ、愛し、反発し、蔑ろにし、しかしやはり寄り添おうとし続ける、という魂の貴種流離譚とも言えるような、あまりにも切実なテーマの表出を描いているからだ。

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 彼の寂しい豪邸に寄生している無職ニートの青年トッドもまた、トッドというくずキャラのみでなく、彼の良心の化身とも言える存在として描かれる。馬ボージャックは彼をどことなく家に置き続け、時に庇護し、時に馬鹿にし、裏切り、打ち捨てる。(ちなみに彼は、のちに社長になったりホームレスになったりしながら、天職のベビーシッターとして楽しそうに赤ちゃんと過ごす)

 俗世間で闇落ちしていく人間が己の良心といかに向き合って来たかを、クズキャラ同士のどうしようもない笑い話の奥に隠し描いているのである。

 時にそこに表出しようとするものが複雑すぎてグダっていることもあるが、このドラマに出てくる多くのキャラが、それぞれに切実なテーマを隠し持っている。それでいて、くず馬が調子に乗ってはその代償を払い転落していくブラックサザエさん的なホームコメディに徹しているところに、このドラマの魅力がある。

 善きもの、美しいものを心に秘めながら、俗世間に飲まれ、欲望に飲まれ、抗い、足掻きつつ、堕落し続ける。そんな転落の中でも、時に美しい花を見いだすこともある。

 楽園を追われた魂の叫びを描き続けるこの作品は、一切を気取らずにひたすら下劣な馬を笑いのめしながら、気づかないうちに我々の心を洗い昇華させてくれる。

 下品で救いようのない馬の中に高尚さを隠すからこそ、多くの人の心に染み渡る。

 我々の心のどこかに潜んでいるかもしれないトッドやダイアンが、このドラマ越しに語りかけてくることもあるのかもしれない。


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ドラマ『ガンニバル』への愛憎

『ガンニバル』公式サイト

 

 ディズニー+で人気を博している話題作『ガンニバル』。

 少し時間のできた夜に試しに1話観てみたのが最後、気づけばシーズン1コンプリートしてしまった。

 なぜこのドラマを目にクマまでつくって観終わってしまったかというと、このドラマが胸糞悪いからである。面白いから全部見たのではない。なんとかして胸のつっかえをとりたかったのである。

 

 しかし悲しい哉。このドラマ、帰着に向かってどんどん進んでいたのに、シーズン1で終わらないのだ。こんな絶望的な内容が宙ぶらりんのままの状態は耐え難い。

 かつてよりその土地を支配する「後藤家」の横暴、村人の陰湿さ、そんなものはドラマとして楽しい要素でしかない。人をたくさん食べてようがそれも別に構わない。それでは何がそんなに胸糞悪いのか。

 

 子供である。舞台の「供花村」では毎年子供を喰っているのである。あと結構頻繁に大人も。

 まじでこの設定が許せねえ。あんな可愛い子たちに、しかも乳幼児にあんな酷いことするか?アメリカンホラーの代表的なモンスターや怪人たちも、大量に人を殺したり拷問したりするけどほぼ子供は殺さないぞおい。どんなしがらみだって悪意だって、あんな幼い子どもたちをあんな地獄に閉じ込めて、痛ぶり殺す世界が、例えフィクションであっても存在していいのか?このドラマ(原作は漫画だけど)のあまたの輝く魅力を掻き消す、現実離れした設定じゃないのか?あまりにも自然に反しすぎてリアリティーを失いきってないか?

 そんな怒りの悶絶の中で、物語の帰着も見れずに今がある。

 

 しかしガンニバル明けの寝不足のまま、朝から家事に仕事に奔走していると、あの絶望的な世界観が、実はそんなに現実離れしたものではないように思えてきたから不思議である。

 

 まず、子どもを毎年儀式的に喰い殺すという絶望はさておき、絶大な力を持つ地元の一族の横暴や、村のスーパーキモいネチネチ上下関係を心底嫌悪しながらも、守るべき娘と家族のために怒りを押し殺して平静を保たねばならないあの感覚。親には誰にでも覚えがある感覚なのではないだろうか。

 あるいは守るべきものがある人間は、その分大きな意義を与えられているが、同じくそのために怯え、弱くならざるを得ないことがあるだろう。

 大きなトラウマを背負う娘に笑顔を取り戻してくれた村の子供達とその環境のために、村人のキモさ、尊大さ、そして暴力に真っ向から反撃できない主人公の姿は、私たちに大きな共感を授けてくれる。

 そして自然すぎて、他の邦画や日本のドラマが不自然に見えてくるほどの会話、セリフ回し、主人公の「実はこいつが一番やばい」感、たまらなく好きです。

 

 そして個を殺し、集団に身を捧げる価値観、閉鎖空間での殺人的な空気支配、道化じみて実はプライドと支配欲の塊の中年男性、犬のような追随者たちのネチネチ忠誠心、家父長制、男尊女卑、法の支配や合理主義に打ち勝つジメジメした忖度不文律、どれをとっても日常ですぐに見つかる光景である。

 四方を川に囲まれた島のような閉鎖空間の供花村は、四方を海で囲まれた日本に重ならなくもない。

 

 そして子供達の幸福度の低さ、受験や就活を通して、その多くは不景気な社会に「出荷」されて使い倒されていく悲しみ。

 慈しみ深い存在や、大切な存在を抱えながら、不安や痛みに満ちた社会の中を歩まねばならない感覚、それはガンニバルのあの世界を観た時の胸糞悪さと、実はそんなに違っていないように感じてしまう。

 

 ということは、この作品は私にとってやっぱり体にいい作品なのかもしれない。現実にある悩み苦しみを映像の中で昇華させて、時に力や知恵を与えてくれる作品なのかもしれない。

 しかしあの暗くてジメジメした洞窟の牢に囚われ、飼われている幼児たちの姿、そして生贄の儀式、あの光景は例えフィクションであっても最悪の映像体験だった。私はあの一連の描写、そして共感も理解もできない子ども喰いの設定を深く憎む。ハンニバルレクター博士みたいに悪魔的な象徴性を帯びていじけ、堕落した大人を食っている存在には遠く及ばない設定だと思う。でも私はシーズン2を見るだろう。主人公が子どもたちを救う姿を観るために。