ジャン・クリストフ 1

 

 

「ああ!伯父さん」と彼は言った。「僕は苦しいんだ!」

 

「伯父さん、どうしたらいいんだろう?僕は望みを持った、そしてたたかった。だが、一年たっても、前と同じところにいるんです。それどころじゃない!あと戻りしちまったんです。僕はなんの役にも立たない人間だ、なんの役にも立たないんだ!僕は生活を台なしにしちまったんです。誓いに背いたんです!……」

 

 二人は町の丘の上にのぼった。ゴッドフリートはやさしく言った。

 

「そんなことは、今度が最後じゃないよ。人は、望みどおりのことができるものじゃない。人は望みを持つ。人は生きる。それは全然別なことだ。あきらめるんだ。大事なことは、いいかね、望んだり生きたりするにの飽きないことだ。それ以外のことはわたしたちには関係ないことだ」

 

ー『ジャン・クリストフ』 ロマン・ロラン 新庄嘉章訳

 

 大学生になりたての頃、ロマン・ロラン作のジャン・クリストフをまるで聖典かのように読み耽っていた時期があった。

 作者の名前通り、文学のロマン主義における一大巨頭であり、人間の魂をこれほど高らかに、そして美しく歌いあげた作品を私は他に知らない。

 やがて大人の階段を上るにつれ、このロマン主義が重石となっていった。

 現実的な日常生活とロマン主義は、しばしば相容れないものがある。

 ジャンクリストフを読み耽っていると、ついつい高踏的な人間になってしまうことが、どうしても多いのだ。

 

 しかし何かに苦悩している時、息苦しい時、大きな変化を受け入れねばならない時、クリストフの騒がしい感受性、絶望と歓喜の間を行き来しながら音楽を綴ってゆく生き様が、やはり多くの栄養を与えてくれることに気づかされる。

 しばらくジャンクリストフから遠ざかっていた日々が長かったが、本につけられたページの折り目を開いてつまみ食いするのが、最近たまらなく楽しい。

 

 青年期の苦悩に満ちたクリストフに、陰ながら絶大な影響をもたらした放浪の行商人、ゴッドフリート伯父さんの信仰を、私は心から愛している。 

 

「一日一日に対して信心を持つんだ。一日一日を愛するんだ。一日一日を尊敬するんだ。

特に、それをしおれさせちゃいけない。それが花を咲かせるのを邪魔しちゃいけない。今日のように、灰色で陰気な一日でも、愛するんだ。

心配することはない。ごらん。今は冬だ。全てが眠っている。強い土地は目を覚ますだろう。

強い土地でありさえすればいい。強い土地のように辛抱強くするんだ。信心を持つがいい。そしてお待ち。

もしおまえが強ければ、すべてがうまくいくだろう。たとえお前が強くなく、弱くて、成功しないとしても、それはそれなりでまた幸福でなければならぬ。

もちろんそれ以上にはできないからだ。それなのに、なぜそれ以上のことを望むんだ?なぜ自分でできないことを悲しむんだ?

自分でできることをしなければならない。自分のなしうる限りをね」

 

「それじゃあんまり情けない」とクリストフは顔をしかめながら言った。

 

 ゴッドフリートは親しみを込めて笑った。

 

「それでも、誰よりも多くのことをしているのだよ。」

 

ー『ジャン・クリストフ』 ロマン・ロラン 新庄嘉章訳

 

小説 『永い言い訳』 に触れて

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西川美和さんの作品を読んでいると、善い小説の真の効力を思い知らされる。

それは読者に「主観」を与えてくれることであると思う。

小説なのだから当たり前ではないか、と一瞬思いはする。

とは言っても、私たちの内面は日頃そこまで豊かに語らないし、仮に豊かな内面を秘めているにしても、日々の疲労、心労、自意識などによって麻痺し、硬化しているのではないだろうか。

小説の中で感受し、思考する内面の声を拾い、文字にすること、小説にすること、物語にすること。

それはゾンビのように脳内をフラフラとさまよい歩いている思索と感受に、美しい衣を着せて人間に戻そうとしている試みそのものである。

その人間が話し、考え、葛藤し、感動する姿を見て、読者もまた豊かな内面を微かにでも再生させることができるのだ。

善い作品は、健康な「主観」を与えてくれる、そう思うのだ。

エドガー・アラン・ポー 『群衆の人』 

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「あの老人は—」ようやく言葉が出た。

「罪悪の典型にして権化。どうあっても一人にならない。群衆そのもの。群衆の人だ。いくら追っても無駄なこと。あの人物、あの行動が、これ以上わかることはない」

ーポー著 小川高義訳『群衆の人』より

 

 とある秋の日のロンドンで、おそらくは著者本人であろう主人公は、コーヒーハウスの出窓からひたすらにロンドンの街頭、道ゆく人々を観察し続ける。

 その光景は現代とは2世紀以上も隔てた異国の光景とは思えず、あらゆる現代都市の光景にそのまま当てはまるような、生々しくも刺激に満ちた人物模様である。

 そんな道ゆく人々の中に、主人公は一際存在感を放つ1つの顔を見出す。70歳くらいの老人である。 

 理由もわからずに惹きつけられるその顔には、

 「大変な知力がある、用心深い、けちくさい、欲深い、冷たい、あくどい、血に飢えている、得意顔、上機嫌、過剰な恐怖心、強度の—強度の絶望感、異常なまでに興味をそそられ、唖然として、夢中になった」のだそうだ。

 魅了されているのか嫌悪しているのか、どちらの感情も混じり合った興奮を抑えきれず、なんと主人公はその老人へのストーキングを開始する。

 急に陽気に悠然と歩いたと思えば、卑屈に青ざめて歩いたり。なんの目的もなく市内のあらゆる場所を徘徊するこの老人。

 結末で「罪悪の権化」なる「群衆の人」と呼び捨てられるこの老人ではあるが、基本的に人間を前にするすぐに、伏し目がちで臆病な態度をとっている。散々ストーキングして性根尽きた主人公が、遂に老人の正面に立ち尽くして睨みつけても、老人は目を合わそうとすらしない。

 

 「都市を漂流する自意識」とでも言えば良いのだろうか。とても「群衆」を体現しているとは思いたくないこの老人ではあるが、どこか共感し、納得できてしまう人物像である。

 老人の一番の不幸は、ひたすらに「見るもの」を探し求めながらも、結局何も見つけられない、だけでなく主人公の異常なストーキング被害者として、彼自身が「見られるもの」であり続けざるをえない、そんな皮肉な悲劇性である。

 常に「被観察者」としての立場を逃れられない、そんな老人の不幸は、重い自意識に取り憑かれた現代人のありようと深く重なりはしないか。

 一人でいることができず、何かを求めて都市を徘徊する。しかし人知れず皮肉な観察者に苛まれるだけで、何をも見出し得ない。

 魂を浄化するような救い、刺激、あるいは幸福を探しながらも、遂には見出すことのできず、地上を彷徨う人間たち、それが主人公の見た「群衆の人」であったのかもしれない。

 市内を徘徊する老人を2日間もストーキングする主人公は、老人に負けず劣らずの暇人であり、かつ上から目線の異常者であるが、少なくとも彼は「見るもの」、「観察者」であり、一人勝手に知的好奇心に遊んでいる。

 ある意味で老人は、著者ポーの病んだ自意識そのものであり、「ようやく回復期にあって身体の力を取り戻しつつあり、いわば倦怠とは正反対の浮き立った気分」で病んだ自己を「老人」として客観視して見せたのかもしれない。

 たった十数ページの短編にも関わらず、都会人、いや現代人に重くのしかかる呪いと、その呪いからの救済の道を、サラッと書き上げて見せた、良作なんだと思う。

小説 ジキル博士とハイド氏

各時代ごとに造られる怪物観

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 「怪物は境界線に存在する」という言葉がある。

 我々人間は完璧に境界を異にした存在に対しては、それがいかに恐ろしい存在であっても怪物という言葉は使わない。

 異質な存在であるにも関わらず、そこに人間的な何か、あるいはかつて人間であった時の何かを垣間見るからこそ、その存在は怪物なのである。

 

 『ジキル博士とハイド氏』のハイド氏の怪物性についての描写は沢山あるがその中でも最も興味を持った部分は作品のクライマックスでもあるジーキル博士の陳述書の中にあった文章で、善と悪について述べられたものである。

 ジーキルは後の研究で彼の考えを凌駕する人々の多元的人間観をも予感しつつ、人間が二元的な存在だという真理を悟る。

 

 その二元性には様々な解釈が可能である。そこには当時の関心を集めていた進化と退化、男性と女性、イギリスとアイルランドなど様々な問題を当てはめて読むことができるだろう。

 ここでは最も直接的な解釈、善悪の二元性として考えて見たい。

 

 善と悪を二分しようとした結果ハイド氏を生み、それについて「善と悪の二大領域が、大多数の人間よりもはるかに深い溝で仕切られる結果となった。」と語っている。

 つまりハイド氏は人格を分離した結果の純粋な悪の存在としての怪物なのである。

 

 純粋な悪といってしまうと境界線上にいる怪物というより、悪魔的な別次元のものと考えられるかもしれないが、この作品の中では「すべての人間は善と悪の混合体」であり「エドワード・ハイドのみは、全人類のなかでただひとり純粋な悪」なのである。

 だとすれば、ハイド氏に出会うものすべてが彼を奇形とみなし、嫌悪の情を起こさせる怪物的な存在であるのは、自分のなかにもその「悪」を持っているからだろう。

 

 その「悪」はヴィクトリア朝では特に嫌悪されていた快楽や野蛮性のような本能的な行動をさすのかもしれない。

 そう考えるとハイド氏の、絞首刑を免れるためにはジーキルに戻ったり、生への驚異的な執着を見せたり、といった行動はとても興味深い。

 そもそも人間の本能的なあらゆる行動は、自己保存と種族保存のために身体に備わった必要不可欠な感覚である。イギリスの発達した文明とキリスト教的価値観のもとで、それをどんなに悪と呼び捨てようと、それは否定しがたく誰もが持っている。

 

 そういった「悪」を当時のイギリスの社会秩序で抑圧することで、文明を維持するイギリス人の姿がジーキルなのであれば、生命に驚異的に執着するハイド氏の姿は、人間の抑圧された自然な機能の叫びであり、そういったものを怪物視する彼らこそが、他の文化圏の人々や人間以外の生命から見ればなにか不可解な生活を送る生物としての怪物といえなくもない。「善」の化身たるジーキルもまた、怪物なのである。

 

 放浪好きで都会を嫌ったスティーブンスンの描くハイド氏はある意味、我々も含めた文明に生きる人間の不可解な生活へのアンチテーゼとしても解釈できるのではないだろうか。

魯迅『狂人日記』と『阿Q正伝』

近代の悩める自我について

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 三十年ぶりに月光を眺めてから、突然に病理を深めていくある被害妄想狂の日記を描いた『狂人日記』で、終始表現される食人に対する嫌悪と恐怖。

 近代に至り、生命が1つの権威や宗教と共に共同体の中に溶け込んでいた時代は去り、入り乱れる新旧の価値観の中で、各々が即席の自我の獲得を課されることとなった時代。

 圧倒的な善として世界を闊歩した啓蒙思想の助けもあってか、従来の価値観は審問に伏され、悪徳として否定されることも珍しくないこの時代に、王政やキリスト教、そして儒教もまた、徹底的な打撃を受けた。

 

 儒教的な価値観の弊害を食人として理解すればすっきりと読めるかもしれないこの作品は、しかし近代人が誰もが持つに至った不安定な自我への恐怖、つまり実存的な恐怖として読み解くことはできないか。

 

 後天的に時代や環境から付与された思想なり価値観なり信仰なり、その総合の上に成り立つ我々の自我。これを育んだ近代化という時代的変遷のなかで、それを我が血肉のように重んじ、はたまた我が血肉のように傷つけられ、奪われ、食われはしまいか?己もまた他人の血肉を食った上で成りたった存在ではなかったか?このような、己の存在の所在に惑い、己の存在意義そのものに突き刺さる恐怖を、「食人」という野蛮な言葉で表現したのではないか。

 

 また一方の『阿Q正伝』で描かれる阿Qの下劣で滑稽な生き様、それは即席で強い自我を背負わされた民衆に見る近代の殺伐と、その中でもがく人間たちの精神を描いたように思えてならない。

 それは肥大化した自我やプライドに見合わぬ卑小な存在である一個人の、弱肉強食世界での悲しくもあり、可笑しくもある闘争である。

 

 しかし民衆の不安定な自我の滑稽さ、あるいは恐怖を描きつつ、生命そのものに本来あるべき、畏敬に価する何かを描くこと、そしてそのような生命が時代に翻弄され、無残に散っていくことに対する怒りを表現することも魯迅は忘れてはいないように思われる。

 それは阿Qが処刑される寸前に突然鋭敏に知覚される本質的な恐怖と、まさしく奪われようとする生命の、あまりにも生々しい呻きの言葉である。

 

 最後の最後まで下劣で、間抜けであった阿Qの生命は、「にぶくて鋭い、彼のいったことをすぐに咀嚼しただけでなく、彼の肉体以外のものまでも咀嚼しようと、いつまでも彼のあとにくっついてくる」民衆の残酷な視線を前に自我を剥ぎ取られ、叫んだのだ。「助けてくれ、…」と。

 その瞬間こそ、彼はその場に居あわせたあらゆる人々の中で、誰よりも真に人間ではなかったか。

 

 狂人日記での食人への恐怖よろしく、霊魂までもが咀嚼される恐怖に見舞われた阿Q。その死には何の栄誉も、意義もなく、人々の好奇心をすら満足させることなく、惨めに散っていった。

 

 時代を問わず、常にどこかで、日々新たに発され続ける彼の呻きの言葉は、儚い自我の強化に執心する現代人に鋭く突き刺さる。