エドガー・アラン・ポー 『群衆の人』 

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「あの老人は—」ようやく言葉が出た。

「罪悪の典型にして権化。どうあっても一人にならない。群衆そのもの。群衆の人だ。いくら追っても無駄なこと。あの人物、あの行動が、これ以上わかることはない」

ーポー著 小川高義訳『群衆の人』より

 

 とある秋の日のロンドンで、おそらくは著者本人であろう主人公は、コーヒーハウスの出窓からひたすらにロンドンの街頭、道ゆく人々を観察し続ける。

 その光景は現代とは2世紀以上も隔てた異国の光景とは思えず、あらゆる現代都市の光景にそのまま当てはまるような、生々しくも刺激に満ちた人物模様である。

 そんな道ゆく人々の中に、主人公は一際存在感を放つ1つの顔を見出す。70歳くらいの老人である。 

 理由もわからずに惹きつけられるその顔には、

 「大変な知力がある、用心深い、けちくさい、欲深い、冷たい、あくどい、血に飢えている、得意顔、上機嫌、過剰な恐怖心、強度の—強度の絶望感、異常なまでに興味をそそられ、唖然として、夢中になった」のだそうだ。

 魅了されているのか嫌悪しているのか、どちらの感情も混じり合った興奮を抑えきれず、なんと主人公はその老人へのストーキングを開始する。

 急に陽気に悠然と歩いたと思えば、卑屈に青ざめて歩いたり。なんの目的もなく市内のあらゆる場所を徘徊するこの老人。

 結末で「罪悪の権化」なる「群衆の人」と呼び捨てられるこの老人ではあるが、基本的に人間を前にするすぐに、伏し目がちで臆病な態度をとっている。散々ストーキングして性根尽きた主人公が、遂に老人の正面に立ち尽くして睨みつけても、老人は目を合わそうとすらしない。

 

 「都市を漂流する自意識」とでも言えば良いのだろうか。とても「群衆」を体現しているとは思いたくないこの老人ではあるが、どこか共感し、納得できてしまう人物像である。

 老人の一番の不幸は、ひたすらに「見るもの」を探し求めながらも、結局何も見つけられない、だけでなく主人公の異常なストーキング被害者として、彼自身が「見られるもの」であり続けざるをえない、そんな皮肉な悲劇性である。

 常に「被観察者」としての立場を逃れられない、そんな老人の不幸は、重い自意識に取り憑かれてた現代人のありようと深く重なりはしないか。

 一人でいることができず、何かを求めて都市を徘徊する。しかし人知れず皮肉な観察者に苛まれるだけで、何をも見出し得ない。

 魂を浄化するような救い、刺激、あるいは幸福を探しながらも、遂には見出すことのできず、地上を彷徨う人間たち、それが主人公の見た「群衆の人」であったのかもしれない。

 市内を徘徊する老人を2日間もストーキングする主人公は、老人に負けず劣らずの暇人であり、かつ上から目線の異常者であるが、少なくとも彼は「見るもの」、「観察者」であり、一人勝手に知的好奇心に遊んでいる。

 ある意味で老人は、著者ポーの病んだ自意識そのものであり、「ようやく回復期にあって身体の力を取り戻しつつあり、いわば倦怠とは正反対の浮き立った気分」で病んだ自己を「老人」として客観視して見せたのかもしれない。

 たった十数ページの短編にも関わらず、都会人、いや現代人に重くのしかかる呪いと、その呪いからの救済の道を、サラッと書き上げて見せた、良作なんだと思う。

映画『静かなる復讐』 人間の正体不明性

 

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あらすじ

服役中の夫の帰りを待つアナ。家族で経営するバーで嫌々働く彼女の元に、ある日見慣れぬ男性が現れる。

他の男たちと違って大声で下品な冗談も言わず、物静かで身なりも比較的きちんとしている。

どこかミステリアスなその男=ホセ(アントニオ・デ・ラ・トーラ)は毎日店にやってきて、徐々に客たちや店で働くアナの家族たちとも打ち解けていく。

アナもまたそんなホセに惹かれてゆき、2人はやがて男女の仲になる。しかし彼の正体は…、

 

一部公式サイトより抜粋

 

 正体不明者、アントニオ・デラ・トーラ

 

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 映画『カニバル』で食人鬼を演じたアントニオ・デラ・トーラ。

 食人鬼はとある女性の中に隠された善意や愛を見いだしていき、とある女性は男の中に隠れた狂気を見出していく。どちらの目線にも、「あなたは一体何者なの…?」という人間の正体不明性を前に、呆然と立ちすくむ人間の姿が映る。

 本作でも、アントニオ・デラ・トーラ扮する主人公は相変わらず正体不明者である。孤独で、得体の知れない行動原理を持つ彼の姿は、ほとんど食人鬼のそれと変わりない。

 

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 しかしこの作品に出てくて来る正体不明者は彼だけではない。

 むしろ作品に出て来る登場人物全員が、正体不明者だと言っていい。

 

主要人物全員が正体不明者

 

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 そんな言い方をすると、何か実験的な映画のように聞こえるかもしれないが、そんなことはない。

    そもそも初めて観る映画の登場人物が正体不明なのは当たり前である。

 しかし主人公の目線とともに、彼と交流する人々の日常が生き生きと描かれながらも、彼らが予想もできない一面を隠し持っているところに、本作の面白さがある。

 寡黙に人々を観察し、人々の話をじっと聴き続ける主人公の態度は、通常の映画作品以上に私たち観客の目線と重なるものがある。

 そしてじっと見、聞き、交流し続けてきた彼らが、全く予想と異なる存在であることに、観客はリアルな実感をもって驚かされる。

 

 主人公、主人公の友人たち、恋人、憎むべき敵、病院の寝たきりの男性、彼ら全員の見え方が、映画を見始めた時と、見終わった後で大きく変わることになる。

 

 現代人にぴったりな人間観

 

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 このような人間たちの姿は、建前と本音を巧みに使い分けねば生きていけない現代人にとって、とても親しみ深い姿ではないだろうか。

 全く異なる背景を持つ人間たちが日常的に交流し、友情を育み、愛し合う。しかし彼らの正体を、私たちはどこまで知っているのだろうか。  

 本作でも何度も映されるソーシャルメディアにおいては、より一層美化された表層同志の交流の裏に、見えざる人間たちそれぞれの、複雑な思いが渦巻いている。

  

隠された「闇」ではなく隠された「光」

 

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 「復讐」や「殺人」と言ったまがまがしいテーマを含む本作であるから当然、裏切りや嫉妬、暴力性と言った「闇」が、人間の中に見え隠れする。

 しかし復讐に取り憑かれた主人公が全く気づかなかった、隠れた光もまた、本作のいたるところで見え隠れする。

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 映画の最終パートに至っては、観客も主人公も全く気づくことのなかった、隠された「光」が、彼のすぐ近くに存在していたことを知ることになる。

 正体不明者だらけの本作で真に描きたかったもの、それは人間に隠された闇ではく、むしろその正反対であったのかもしれない。 

 ミステリアスな主人公と正体不明者たち。とめどない不安の中で描かれる復讐劇であるにも関わらず、見終わった後にはきっと、何か暖かい感情が残るはずだ。

 

映画『沈黙』 個人主義に目覚める西欧 個人主義に苦しむ日本

 

 

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 神のあまりにも長く、不気味な沈黙。

 自らの信仰が信者を救うどころか、よりいっそう人々を苦しめ、無残にいたぶり殺されていく絶望を前に、究極の神の不在を経験した神父が見出したもの。それは果たして真の神だったのだろうか。

  私にはどうしてもそう思えない。

 そもそもそこに、「正解」など用意されていないであろう。

 しかし小説家遠藤周作によってほのかに描き出されていた“ある”テーマが、マーティン・スコセッシ監督による映像化の中で、より明確に、その正体を浮かび上がらせたように思えてならない。

 それは「個人主義」である。

   

 

 自己の境遇を神と重ね合わせる主人公 

 

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 本作の主人公ロドリゲス。彼はキリスト教への迫害を強める、鎖国下の日本に上陸してからのあらゆる経験を、キリストの受難と重ね合わせる。弾圧下での信者たちの集い、弟子の裏切り、悲惨な尋問。それら経験する自分の中に、彼は神を見続けるのだ。

 

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 踏み絵(つまりは棄教)という自己自身にとっての究極の苦しみをもってしか、目の前に苦しむ人間を救えない状況。それは人間の罪を償うために自ら磔刑に処されたキリストと彼を、いよいよ強く重ね合わせる瞬間であった。

 そんな瞬間に、彼はあの「声」を聞くのだ。

 

 それは神の声だったのか。それとも神と自己を重ね合わせた、主人公ロドリゴの、内面からの声だったのか。私は後者であるように思えてならない。

 近代人が神を否定し、己の自我を神格化していったように。

 

自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、

最も聖(きよ)らかと信じたもの、

最も人間の理想と夢に満たされたものを踏む。

 

この足の痛み。

 

その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。

 

ー原作『沈黙』より

 

「あの人」、それは神に代わって目覚めつつあった彼の「自我」ではなかったか。

 

日本人には重すぎた「神」、あるいは「自我」

 

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  一神教の教えと数千年をも共にした西欧人。ましてやその宗教の厳しい教義に身を捧げたカトリック司祭である主人公。

 そんな彼が迫害の中で一人、「神」の声を聞いたのに対し、八百万の神と豊かな自然に囲まれてきた日本人にとって、一神教の神の観念はあまりに新しく、また分裂と苦痛をもたらすものであった。

 伝統と慣習の中で集団的な生活をしていた人々が、突如「個人的」魂の所有とその来世的救済の教えに触れたことで生まれた不思議な信仰心。

 集団的な空間に突如出現した「個人」の概念。それは江戸の権力からの迫害に抗うことで、ますます強まっていく。

 しかし彼らの信奉する宗教は、西洋人の目から見て時に滑稽で、時に奇妙にすら映る。


 そしてその最たる例と言える存在こそ、本作の第二の主人公とも言える、キチジロウである。

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 主人公を裏切り続けながらも、最後の最後まで主人公に執着し、懺悔を求め続けるキチジロウ。

 彼の滑稽に見えざるを得ない生き様、繰り返される裏切りと許しへの渇望によって垣間見える、悲しい信仰の姿。それは日本における「個人主義」の根付き難たさを、身をもって体現している存在とは言えないだろうか。

 

 野に放たれる、未熟な「個人」たち

 

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 キリスト教によって突如与えられた、個人的魂の所有、そしてその魂の救済の教えに触れてしまったキチジロウ。彼の未発達な個人主義のもたらす混乱と悲しみは、日本人にとってそう想像し難いものではないのように思える。

 

 自然から切り離され、伝統から切り離され、しかし各々が孤独な現実主義の中で競争の中に投げ込まれる。そんな近代世界が、西欧主導で世界に広がっていった。

 しかしそんな世界で我々が頼りとする「自己」の根源を探ろうにも、その存在を支える「神」は、遠い異国からやってきた見慣れぬ存在である。

 

 近代的な孤独の中で日本人の「自己」を確立させたものは、あくまで「集団」であり、「お上」であり続けたのだ。

 江戸時代後期より、近代的法治国家を目指そうにも、その背景に「神」があった西欧に追いつくために、多くの辛酸を舐めなければならなかったことは、歴史の証明するところである。

 

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 本作で江戸の権力が手懐けたかに見える神父たち。しかし彼らは独自の姿をとって日本文化と混ざり合い、この国の文化を決定的に変えてしまったのかもしれない。

 

 

映画『私はダニエルブレイク』

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あらすじ

イギリス北東部ニューカッスルで大工として働く59歳のダニエルブレイクは、心臓病を患い医者から仕事を止められる。国の援助を受けようとするが、複雑な制度が立ちふさがり、必要な援助を受けることができない。

悪戦苦闘するダニエルだったが、シングルマザーのケイティと二人の子供をの家族を助けたことから、交流が生まれる。

貧しい中でも、寄り添いあい絆を深めていくダニエルとケイティたち。しかし、厳しい現実が彼らを次第に追い詰めていく。

 

—公式サイトより

 

 ダースベイダー or アンチダースベイダー

 

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 政治的なテーマを取り扱った映画作品は大抵2種類に分けられる。

 ダースベイダー的な作品と、アンチ・ダースベイダー的な作品である。

 

 近代的合理主義をひたすら肯定し、秩序を乱す集団を悪として、それと戦う主人公を「正義」とするような作品はダースベイダー的と言えるだろう。

 民主主義が理想に満ちていた時代や、北欧諸国のように、「制度」そのものが優れた世界においては、ダースベイダー的な作品ほど、感情移入して見られるものはない。

 

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 反対に、生命への畏敬の念、そして個人の尊厳や、当たり前の幸福を肯定し、それを脅かす「制度」と戦い続ける人間を描く作品はルークスカイウォーカー的、つまりはアンチ・ダースベイダー的な作品と言える。

 ケン・ローチ監督の面白いところは、彼は完璧にアンチ・ダースベイダー的な映画を撮り続けていながらも、ルークスカイウォーカー的な理想に隠された闇も包み隠さずさらけ出すところだ。

 

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 人間の卑小さ、ずるさ、制度なきところに存在する血縁的な闘争、保守化せざるを得ない善人、…。

 「エリックを探して」や「天使の分け前」など、人間のダメさ、だらしなさを暖かい目線で見守りつつ、ダースベイダー的な存在に一泡ふかせるコメディは、個人的に大好物である。

 

 元も子もないことを言ってしまえば、ケン・ローチ監督は、ルークとダースベイダーのように簡単には、世の問題を二極化できないことを教えてくれるのだ。

 

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 しかしそんな彼が極めてアンチ・ダースベイダー的な映画を撮るとき、しかも引退宣言を撤回してまで、現代を取り扱った殺伐とした作品を撮るとき、改めて現代の制度に、なにか切迫した不安を抱かされる。

  

ダースベイダーは自分の人間性を発達させていなかった。

彼はロボットだった。

自分自身の意志ではなく、押し付けられたシステムに従って生きる官僚だった。

これは今日の私たちみんなが直面している脅威です。

 

ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』

 

精神を失き「制度」の再来

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 国家行政の極度な民営化により、人間の当たり前の権利すら営利追求と乾いた制度によって拒まれる。

 そんな中でひとり尊厳を守り、貧しい隣人たちを助ける善人が戦い、打ちのめされていく過程を描く本作。

 監督であるケンローチは常に、近代的、功利主義的価値観によって、人間性が破壊されつつある中で、形骸化した「功利主義」に戦いを挑む市民たちを描き続けてきた。

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 そんな彼らが人間らしい当たり前の生活を求めるとき、常に彼らの前に立ちはだかる近代的な「制度」。

 その制度が、現代に至って、より一層、冷たく、形骸化した、善意のかけらすらない存在になっていることが、1時間40分にわたってあまりにも現実的に見せつけられるのが本作である。

 

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 日常生活の中に潜むささやかな善意、愛情、共感を繊細に描き続けてきたケンローチ。

 本作でもそれらは余すことなく、感動的に描かれるも、その感動にはくらい影が落とされることになる。

 

 スカイウォーカーはいずこに消えてしまったのか。

 

 

映画『この世界の片隅に』 スズさんの右手

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 この作品を観初めて数分間、正直私は気分がよくなかった。

 戦中の日本の過酷な生活、男女差別、不気味な戦争経済が広がっているにもかかわらず、その風景が、あまりにものどかで、都合よく加工されたものに思えてしまった。

 「常にボーっと」している可愛らしいヒロイン、スズさんを通して、それらすべてが、美化されているように思えのだ。

 

 しかしスズさんが右手とともに大切なものを失った時、今までみずみずしく描かれていた日本の風景が、今まで通りのタッチで描写されているにもかかわらず、堪え難い悲しみに満たされていく。

 その時初めて気づくことができた。美化されているかに見えた戦中ののどかな日本の風景は、彼女の想像力によって、そしてその感受性をそのままキャンバスに刻みつけた、あの右手によって担われていたことを。

 

 大切なものを失った彼女が、その想像を絶する苦痛を乗り越えた時、再び見えてくるケモノたち、新しい命、新しい世界。

 彼女の想像力によって、失われた広島の光景すら、色彩豊かに復活する。

 

 苦痛と混乱に満ちた戦後の日本を建て直した人々の中に、スズさんのような魂があったことを思うと、涙が止まらない。

 失われた右手も、また手を振り返してくれるのだ。

絵画 『羊の剪毛』

 

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 上野にある国立西洋美術館に一点、心惹かれてならない作品がある。

 常設点も終わりに近い近現代美術の作品群の手前。暖色に照らされた、19–20世紀の美術作品を並べる部屋の中に、その作品はある。

 

  『羊の剪毛』と銘打たれたその作品は、同じ空間に並ぶエキゾチックな異国文化や、ダイナミックに大自然を描いた神話的な作品群と違い、農民の日常を切り取った、とり分けて静かで、地味な作品である。

 しかしその絵画を一目見たときから、その平和な風景からにじみでる慈しみ深さ、行ったこともない風景に対する懐かしさとでも言えばよいのだろうか。なんとも言えぬ説明し難い魅力に心掴まれてしまったのを覚えている。

 

 ひときわ存在感を持って描かれる角ばった石柱、その石柱に支えられた大きな屋根によって、絵画全体は薄暗く、単調な色彩である。

 

 柱に寄りかかり、身を起こしたままやや力強く羊を抱く夫とは異なり、羊をあやすように地べたに座り、優しさに満ちた表情で羊を見下ろす妻は、単調な色彩の空間の中では特に目を惹かれる、真っ赤なバンダナを巻いている。

 

 愛らしく傾けられたその顔の左半分は、外からの陽光によって、その微笑みの柔和さがよりはっきりと照らし出される。

 この絵画に最初に魅了されたのも、この農婦の、あまりにも美しい表情だった。

 

 毛を刈られる羊たちは反抗することもなく穏やかに、その身を人間に委ねている。

 地平線の浮かぶ外界の風景と羊たちは、絵画全体を覆う大きな屋根と柵によって隔てられているも、何匹かの羊たちはねだるように屋根下の夫妻を見つめる 。

 他の羊たちも奥にあるもう一つの屋根を支える石柱の下に群がっている。

 

 鮮やかな陽光に照らされた、色彩豊かな大自然が描かれているにもかかわらず、単調でほの暗い、人工的な空間こそが、より美しく、平和な風景に見える。

 そして人工的な空間の魅力の大部分は、作品中心に座りこんだ、赤いバンダナの女の所作と表情によって担われているように思えてならない。

 

 宗教的モチーフも当然あるであろう本作品であるが、絵画を読み取る知的な楽しみ方を差し置いてでも、情緒において真っ先に見るものを掴む。

 神でも自然でもなく、人間中心の殺伐とした近代世界の暗さ、単調さを視覚的に見せられながらも、その空間に存在するひそやかな平和、生への慈しみ、その生命の美しさそのものを、赤いバンダナの女に教えさとされているようだ。

 

ジブリ作品『もののけ姫』 「祟り神」が象徴するものとは

 

ジブリ作品とドロドロの怪物たち

 

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 宮崎駿作品にはしばしば、ドロドロした気味の悪い怪物が現れる。

 『風の谷のナウシカ』の巨神兵や『千と千尋の神隠し』の暴走するカオナシなど、挙げればきりがないが、核兵器の脅威や巨大化し続ける胃袋(欲望)など、いずれの存在も必ず何かしらの象徴を背負わされている。

 

 そんなドロドロの怪物の中でも個人的に最も戦慄を覚えたのは『もののけ姫』の「祟り神」である。

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 全身を気持ち悪い触手に包まれ、その存在に触れた草木は腐り、凄まじい執着で人間に迫り来る祟り神。

 その存在が象徴するものは何なのか、宮崎駿の近代化への目線を含め考えてみたい。

 

 

もののけ姫』のたたら場が象徴するものとは

 

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 まず、もののけ姫で登場する「たたら場」という場所。そこは戦乱の時代に強固な城壁と最先端の技術を有する平和的な都市世界である。

 従来の伝統に縛られず、先端技術をもって他国を圧倒し、女性、病人、奴隷、弱者を保護するこの都市の長、「エボシ」は近代精神そのものの化身である。

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 しかし近代化に必要不可欠な存在である資源を惜しげもなく消費し、それを邪魔する存在は人間であろうと神であろうと容赦ない彼女は、過激な暴力を持って多くの存在を傷つてけているのも事実である。

 エボシ率いる「タタラ場」という場所、それは急速な近代化を遂げた日本、とりわけ戦後の高度経済成長期の東京であるように思えてならない。 

 

 明治以降急激な近代化を進め、西欧諸国に追いつけ、追い越せで発展を続けた日本は、人間/自然、近代/伝統、都市/地方など様々な対立を作り出した。

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 他国の武将達に「鉄」を売ることで富を築き、発展する「たたらば」は、戦後、大量の武器や物資を輸出することで特需を得た日本の姿と重なる。

 そしてそんな急速な近代化の陰で、搾取され、踏みにじられ、忘却された存在たちは、不気味な姿をとって近代世界に復讐を試みるのだ。

 
祟り神と「公害」

 

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 昭和30年代を懐かしむ人たちが日本にはいます。つまり50年代から60年代にかけてですね。

 その時期は良かったんじゃないかと錯覚を起こしている人たちがいます。けれども、非常に不幸な時代でした。

 非常に鬱屈した欲求不満が、その後の凶暴な公害をもたらすんです。

 日本中の海や川を汚し、山を削り、ゴミだらけにし、

 こんなに凶暴になることはかつて日本にはなかったことですから。

 それまでの懐かしいと言われている時代の中に、それだけの欲求不満が渦巻いていたんです。

 

podcastジブリ汗まみれ』宮崎駿インタビューより

 

 未曾有のスピードで発展し続けた「東京」の発展の陰で、日本は深刻な環境問題に直面する。

 「公害」と呼ばれたその環境汚染は、東京ではなく、その発展の恩恵を享受しきれていない田舎町や地方が、多くその代償を払わされてきた。

 

 作品冒頭で現れる祟り神は、自身に鉄の鉛を埋め込んだエボシの住むタタラ場ではなく、そこから遠く離れたアシタカの村(現在の東北のあたり)を襲う。

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 人間と共存し、敬われ、畏れられていた自然は、人間が長きにわたって崇拝してきた神々であった。

 神聖であったはずの存在が、怒り、苦しみ、奇形化し、「祟り神」となって襲い来る姿は、汚染された自然環境が「公害」となって人間に牙を剥く姿と重なる。

 ヘドロのような気持ち悪い色の触手を身にまとい、凄まじい執着で人間を襲う「祟り神」。それは「水俣病」であり、「四日市ぜんそく」であり、現在では…、果たしてどんな姿をとっているのだろうか。