don’t look up(ドント・ルック・アップ)が良すぎたので合わせて観て欲しい作品
Netflixオリジナル作品群の中でも肝いりの超大作、dont look up.
最後の最後までノリノリのテンポで笑わせ、毒付きながらも、どこか地球温暖化やコロナ危機を彷彿とさせる。危機を前に暴走する人々を小気味よく笑い続けながら、最後の最後にドスンと重たいボディブローを食らわせる作品。
「死」や「滅亡」を前に、民主主義大国たるアメリカ国民は一致団結するどころか、足を引っ張り合う。
というよりも「重たいもの」「面白くないもの」「未知のもの」を忌み嫌い、「笑い」や「軽快さ」、「刺激」を大量にまぶし被せて忘れようとする。
娯楽と情報の洪水をもたらしているNetflixそのものが、エンタメ超大作そのもので、刺激と情報の氾濫に狂いゆく人々を笑いのめすのである。
そんなNetflixの二枚舌にムカつくと同時に喝采を送りたくなる。混乱極まれり。
全然関係ないが、あのラストのボディブローを思いっきり食らってしまった人に、ぜひ合わせて観て欲しい作品がある。
同じくNetflixで観られる「Rick and Morty(リック・アンド・モーティー)」season5 episode3『恋は盲目』というエピソード。本シリーズを見たことがない人でも大丈夫。20分ぐらいの短編です。
天才マッドサイエンティストのじいさんが孫に懐かれないフラストレーションを解消するために、滅亡を前にした星々を旅する話である。
滅亡を前にお祭り、乱行騒ぎを繰り返す宇宙人たちを描きながら、同時平行で、環境破壊が深刻化する地球での、「孫」の尊い尊い失恋を描く。
涙なしには見終われない悪趣味アニメである。don’t look upで受け止めなければいけない重たいメッセージを、これまたさらなる笑いと悪趣味さの上塗りをした上で、感動とともにつるんと消化させてくれること間違いなしだ。
「死」や「滅亡」は、重たく、暗く、避けるべき話に思われるが、それだけではない。
爆発的な量の情報と感情に向き合い、その葛藤の中で悩み、疲れた大人たちを正気に立ち返らせる、失っていたはずの最も基本的な感覚を取り戻してくれる、冷たい冷たい良薬になることもある。
そんな凍てつく良薬を、大量の笑いと刺激の糖衣で包み返して我々に与えてくれる上記作品群、そしてNetflixに、改めて頭が下がる。
クレヨンしんちゃんは庶民か
しんちゃんがこれほどに人気のある国民的アニメになった理由は何だろう。
特別な能力もなければ才能もなく、裕福でもないしんちゃんが平凡な毎日を、そのお転婆さ、下品さ、自由さで楽しむ姿。その姿が長きにわたって日本人の心を癒し元気付けてきた。
しかし多くの人が薄々感じているように、もはや現代においてしんちゃんは「庶民」ではない。いや、厳密に言えば、彼に与えられた「平凡」な環境は、もはや平凡ではない。
商社の中間管理職であり、郊外に一戸建てと車を持ち、家族4人をその一人の収入で養いつつ、週末には家族サービスを怠らず、健康な心身を維持する父ヒロシはもはや「庶民」ではない。
何人のサラリーマンが、その健康と正気を保って苛烈なる激務をこなしながら安穏としていられるか。朗らかな同僚と上司に恵まれ、ニコニコと談笑して終業を迎えられるか。
昇進に伴てかさみゆく軋轢、不文律にまみれた重責、終わりの見えない日々の反復を前に、正気を保っていられるか。
ミサエもヒマワリも忠犬シロも皆、庶民ではない。
今や国民が血眼になって疲弊しながら何とか維持し、あるいは夢見ている生活水準を、当たり前のごとく貪って人々を焦燥させる存在なのである。
「平凡」な日常の、「平凡」な家族どうしの戯れ、それこそがクレヨンしんちゃんというアニメ全体を占める至高の価値ではなかったか。
しかし知らぬ間にリアリティーを失ってしまった彼らは、国民の心から乖離していくばかり。威張り腐った波平にお茶を注ぐフネとサザエさんのごとく、もはや共感を失った旧態家庭になって行くだろう。
しんちゃんの中で繰り返し提示される「平凡な幸福」、それは高度経済成長期やバブル経済の巨大な資本活動を経験した人々にとって過小化された価値に貶められていたのかもしれない。
ふと振り返れば、世の中には飽くことを知らぬ成長と物質主義が溢れかえっていた。より便利なモノ、より高級なモノ、より新しいモノが溢れ、屈強な日本経済もまた、メディアを通してその国の内外にお祭り騒ぎの様相を呈した。
そんな世の中において、「平凡な日常」、「平凡な家族」から漏れいでる笑い、そこにある小さな幸福にフォーカスした風景は、至高の物質主義に正気を失いつつあった人々の心に響いたことだろう。
飽くなき成長への焦燥、浮かれた物質主義に優先される、「平凡な日常」、その素晴らしさの再評価を促したことにこそ、このアニメの人気の秘訣はあったのだとは言えないか。
例えばクレヨンしんちゃん映画の代表作の一つ『オトナ帝国の逆襲』のメッセージを見てみると良い。
夢と希望にあふれていた「懐かしき」日本文化は廃れ、オトナたちは夢を失い、空虚な毎日を過ごしている。そんな世の中にN Oを突きつけた革命集団イエスタデーワンスモアは、かつての日本を取り戻そうと「懐かしい」芳香を撒き散らし、全国のオトナたちを陶酔させる。
敵組織の切望に満ちたユートピア思想を打ち倒す正義は、「最も泣ける」シーンとしてお馴染み、ヒロシの臭い靴であったそうな。
すなわち、みさえとの馴れ初め、しんちゃんの誕生、辛い新人時代の上司への恭順、残業仕事、そして仕事終わりに彼を待つ、家族との微笑ましい団欒の感涙シークエンスである。自転車の後ろから仰ぎ見る父の大きな背中…
秘密結社による理想主義、革命運動などなくとも、ニッポンのユートピアはここにある。この平凡な毎日こそユートピアなのだ…。
そんな一連のシークエンスに家族の価値を再確認して結束したしんちゃん一家を前に、敵の革命運動は敗れる。大人たちは正気を取り戻す。
思えばこの映画が傑作となり得たのは、リアリティーを失いつつあるしんちゃん家族へのアンチテーゼそのもののような敵の存在にこそあったのかもしれない。高度経済成長の終わりに現実世界に出現した宗教集団によるテロ行為の悲劇を、我々は実際に知っている。
その他、あらゆるクレシン映画に登場する敵たちが最後に敗れる原因もまた、しんちゃんたち「平凡な」家族の、強固な結束である。
敵は宣告されるのだ。「何者も、我々家族の素晴らしい日常、そこに生まれる絆の強さに打ち勝つことはできぬ」と。
種々さまざまな敵を前にして、常にその正義の大義名分は、「平凡な日常」の価値にあったのである。
悲しい哉、もはやしんちゃんとその家族の生活は、平凡ではない。それは大部分の日本人にとって、幾多もの競争の中で、過労と忍耐によって血眼に勝ち取られる生活なのである。
「凡人ひろし」は、もはや虚構になってしまったのだ。 容易には得られるはずのない「平凡さ」は、取り残された人々に疎外感、焦燥感、あるいは劣等感を与えこそすれ、かつてのように笑いと感動を与えはしないだろう。
平凡さを仰ぎ見る人々に言いたい。しんちゃんは庶民ではない。出世して過激さや毒舌を抜かれた芸能人よろしく、寂しい時代の遺物なのである。
虚構の平凡さを仰ぎ見るぐらいなら、己の卑小さを愛したほうがいい。
その卑小さの中にもまた、忘れられているいくつもの光があるはずだ。かつて平凡だったしんちゃんが、私たちに多くの笑いと感動を教えてくれたのと同じように。
正月について
年の「終わり」と「初まり」を見守る時、人はそこに人生そのものを改めて意識し、その奥に少しだけ、死を垣間見る。
子供達はいつも以上に目を輝かせるオトナたちに小首をかしげながら、やがてはまどろみ夢の世界へ。
その驚きに満ちた毎日に、年越しという日来てもなんのその。それはお菓子についているオマケのようなものだ。明日も新しい日がやってくる。明日も新しいオマケが欲しくなる。
オトナたちはそっと忍び寄る死の気配に、日常感覚の麻痺を与えられて初めて、味わい忘れていた人生の旨味、苦味を味わう。友人知人、テレビ、メディアのお祭り騒ぎに多少食傷したその舌で、年に一度の珍味に味わい酔いしれる。
みんな固唾を飲んでカウントダウンだ。5、4、3、2、1…。
数え終わった数字達の儚さよ。
その数秒前に去年が存在していたこと、それは過ぎ去った青春の日々、幼年期の日々にも似て、小さな死の如く遠い。
あけましておめでとう。今年もよろしく。数秒間の中で垣間見た死は何処へ。やがては日常が扉をまたぐ。
ジャン・クリストフ 1
「ああ!伯父さん」と彼は言った。「僕は苦しいんだ!」
「伯父さん、どうしたらいいんだろう?僕は望みを持った、そしてたたかった。だが、一年たっても、前と同じところにいるんです。それどころじゃない!あと戻りしちまったんです。僕はなんの役にも立たない人間だ、なんの役にも立たないんだ!僕は生活を台なしにしちまったんです。誓いに背いたんです!……」
二人は町の丘の上にのぼった。ゴッドフリートはやさしく言った。
「そんなことは、今度が最後じゃないよ。人は、望みどおりのことができるものじゃない。人は望みを持つ。人は生きる。それは全然別なことだ。あきらめるんだ。大事なことは、いいかね、望んだり生きたりするにの飽きないことだ。それ以外のことはわたしたちには関係ないことだ」
大学生になりたての頃、ロマン・ロラン作のジャン・クリストフをまるで聖典かのように読み耽っていた時期があった。
作者の名前通り、文学のロマン主義における一大巨頭であり、人間の魂をこれほど高らかに、そして美しく歌いあげた作品を私は他に知らない。
やがて大人の階段を上るにつれ、このロマン主義が重石となっていった。
現実的な日常生活とロマン主義は、しばしば相容れないものがある。
ジャンクリストフを読み耽っていると、ついつい高踏的な人間になってしまうことが、どうしても多いのだ。
しかし何かに苦悩している時、息苦しい時、大きな変化を受け入れねばならない時、クリストフの騒がしい感受性、絶望と歓喜の間を行き来しながら音楽を綴ってゆく生き様が、やはり多くの栄養を与えてくれることに気づかされる。
しばらくジャンクリストフから遠ざかっていた日々が長かったが、本につけられたページの折り目を開いてつまみ食いするのが、最近たまらなく楽しい。
青年期の苦悩に満ちたクリストフに、陰ながら絶大な影響をもたらした放浪の行商人、ゴッドフリート伯父さんの信仰を、私は心から愛している。
「一日一日に対して信心を持つんだ。一日一日を愛するんだ。一日一日を尊敬するんだ。
特に、それをしおれさせちゃいけない。それが花を咲かせるのを邪魔しちゃいけない。今日のように、灰色で陰気な一日でも、愛するんだ。
心配することはない。ごらん。今は冬だ。全てが眠っている。強い土地は目を覚ますだろう。
強い土地でありさえすればいい。強い土地のように辛抱強くするんだ。信心を持つがいい。そしてお待ち。
もしおまえが強ければ、すべてがうまくいくだろう。たとえお前が強くなく、弱くて、成功しないとしても、それはそれなりでまた幸福でなければならぬ。
もちろんそれ以上にはできないからだ。それなのに、なぜそれ以上のことを望むんだ?なぜ自分でできないことを悲しむんだ?
自分でできることをしなければならない。自分のなしうる限りをね」
「それじゃあんまり情けない」とクリストフは顔をしかめながら言った。
ゴッドフリートは親しみを込めて笑った。
「それでも、誰よりも多くのことをしているのだよ。」
モンテーニュ3
よく見られることであるが、どんなに豊穣で肥沃な土地でも、遊ばせておくと様々な無益な雑草が生い茂る。
これを役に立てるためには、われわれの役に立つような何かの種子を播いてやらなければならない。
(…)
精神が何か自分を束縛し抑制する主題を提供させられないと、茫然とした想像の原野をただ右往左往するだけになってしまう。
ー堀田善衛 『ミシェル 城館の人』
大抵の場合、日々の生活や仕事で「土地」の養分を使い果たしまうことの方が多いだろう。
例えわずかであっても、その「土地」から実ったものが、私たちを培ってゆく。その実りの紡ぎ合いの中に、喜びあり悲しみあり、人生のドラマが渦巻く。
しかし若さや、才能や、熱意によって「肥沃な土地」を有している人々もまた要注意である。
青春の日々の無限のエネルギーが、時に悩みや苦しみ、痛々しい中二病に繋がるように、豊かさとは時に、人々を焦燥させ、人々を苛む存在でもあるからだ。
多くの場合、大人になって忙しい日々に土地が痩せていくことは、精神の安定にもまた、繋がるのだと思うのだ。
もし幸運にもモンテーニュのように豊かな土地が目の前にあり、そこに雑草が生い茂っているのなら、あまり意気込み過ぎず、彼の言うように、「役に立つ」タネを手っ取り早く撒くのが良いのかもしれない。
雑草の中にはまた、得体のしれない昆虫や小動物もまた訪れる。
それもまた、豊かさの一つの姿ではあるのだが。
許す、という報復
相手に怒りを感じる時、大抵の場合、そいつを張り倒すことは許されない。
言葉による攻撃?その後のことを考えれば損に決まってる。
相手との関係性の修復は、その一瞬の破壊の何倍手間なことだろう。修復なしに相手が敵になればもっと面倒なのだし。
要するに相手に怒りを覚えても、敵意をあらわにすることは損なことばかり。
敵意を隠してこそ、物事は円滑に進む。
しかし敵意を隠すことは大抵の場合、大なり小なり己の尊厳を傷つける。
罵倒して張り倒したい相手を前に、牙を抜かれた道化の顔を向けねばならぬとは。
それは虚勢されたも同然、マウント取られ放題、罵倒され放題、己の尊厳は血の涙を流そうか。
昇化されることなく、くぐもりゆく怒りの念は、もはやあなたの顔面の青すじをブチきらすこともあるだろう。
怒りを何とか抑えても、私たちはしばしば押し黙り、険悪さをあらわにすることもあるだろう。
微かなる怒りの表出によって重たくなりゆく空気。淀んだ空気の読み合いは、結局相手の気分を損なわせて怒りの連鎖を生む。
しかし怒りにわが身を滅ぼすよりは、そして相手との全面的な衝突をするよりは、険悪さを選ぶ人間は決して愚かとも言えまい。
泥沼ですがる藁のごときその陰険さによって、何かしらの復讐を果たすことは可能だろうか。
何物も産まぬその陰険さに、かすかにでも生産性を与えることはできまいか。
愛読書のどっかに書いてあった言葉がある。
「最も高貴な復讐は、許すことである」
それは要するに、相手に対する執着の一切を払い退け、もはや無関心の次元に昇華させることなのだろう。
誰が靴の中の小石に復讐を誓うであろうか。
誰が真夏のけたたましい虫どもへの怒りを讃えるであろうか。
突然の通り雨、道のぬかるみ、湿った服が気になるのなら、屋根や傘を求めるほかない。天に呪詛を唱えて何を得るというのか。
怒りや怨念も、相手に対する執着の一つなのである。許すこと、つまりは相手への執着を捨てることが「復讐」とは。
恐ろしい言葉である。
ただ己が不運を笑い、彼らを許してやるがよい。
予行演習
この不安な日々を予行演習だと思えばいい。みんながいずれ通る道、その少し早過ぎる予行演習だと。
日常が徐々に様変わりして、出来ることも段々と限られてくる。
また日常に戻れるかもしれないが、もしかしたら、もう戻れないかもしれない。
日常を取り戻すために心を砕くも、その努力をどこに向わせればいいのやら。
突き詰めて言えばこの運命の主導権は、自分自身にはないらしいから。
かすかな可能性にも必死ですがりつき、迷いに満ちた祈りを捧げる日々。
それは私たちがいずれ通る道。
息苦しく他人と競争しながら、安全と平和を貪っている時には霞んで見えた道先だ。
日常が崩れ去るとき、仄かに道先が照らし出されているとき、
人は絶望する以外にも、たくさんのことができることを思い出そう。