映画 麦の穂をゆらす風

理想と理性の悲しい対立

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 イギリスの支配に対して反乱を起こしたアイルランド人は多くの犠牲と苦難を乗り越え、不可能と言われた改革に成功する。

 しかしその条約は自国の完全なる自由、支配からの解放とは程遠いものだった。

 

 数々の苦難を奇跡的に乗り越え、やっとの思いで勝ち取った条約を守らんとする自由軍と、数々の苦難を奇跡的に乗り越え、多くの犠牲を払ったからこそ、真の自由を得るために戦わんとする共和軍。

 道は2つに1つしかなく、固く団結していたアイルランド人は分裂してしまう。

 

 客観的に、単なる歴史的傍観者の立場として観るならば、当時完全なる自由を勝ち取るのは極めて困難であったと思う。条約を守るために戦闘中止を叫ぶ自由軍は正しく、反対に共和軍は感情論に任せて今までの戦いを無駄にしようとしているように見えなくもない。

 しかし、戦いのために背反者の少年を涙ながらに処刑したり、拷問され、銃殺される運命の同胞を残しての脱獄をせざるを得なかった彼ら。

 反乱を通してあまりにも大きな犠牲を強いられた彼らの戦いを、計算と道理で終わらせることが絶対的な正解であり得ようか。

 

 イギリスからの解放のために乾いた功利主義に身を落とせば、我々も彼らと同じではないか。度重なる妥協を続けても、真の自由などないのではないか。こういった彼らの声を聞いていると、自由軍の重んじる理性にばかりに賛同することもできなくなる。

 

 理想のために戦う者と、現実を考えて戦いをやめる者、二つの理念を、ある絆の深い兄弟に託して描くこの作品。

 引き裂かれる兄弟の悲哀、そして彼らを包むアイルランドの美しい自然風景を通して普遍化されるこの作品のテーマは、我々の人生の随所にも見出しうる悩み深い二功対立である。


映画 「麦の穂をゆらす風」 (06 アイルランド英独伊西) 予告編

映画 ボーダーライン

麻薬世界にうごめく不気味な男たちとエミリー・ブラント

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  作中に何度も映る空中からの俯瞰映像。メキシコに広がる広大な山々や砂漠、延々と広がるアメリカ、メキシコ間の国境線、そして両国の街の風景。

 不気味なBGMとともに映されるその風景は、我々に客観的視野を与えるどころか、世界そのものが、実は我々の理解をはるかに超えた見慣れぬ場所であることを思わせる。

 その風景のどこかで、暴走する欲望と暴力が麻薬戦争という姿でうごめいている。

 

 いわゆる正義や法律を重んじる、エミリー・ブラント扮する主人公。秩序の守り手としてはっきりとした価値観の世界に住む彼女は、しかし遭遇する数々の残虐な暴力に無力感を感じ始める。

 そんなタイミングで上層部より事態のより真相に関わる任務を与えられた彼女は、麻薬世界のより暗部に足を踏み入れることになる。

 その世界には彼女の、そして我々観客の親しむ世界観などをあざ笑うかのような混沌が渦巻いていた。

 

 彼女が関わり始めた、野蛮で混沌とした世界に住み慣れた男達。彼らの行動原理を必死に理解しようにも、そこにはどこか不正と腐敗の気配が滲み出る。しかし彼らの持つあまりにも重たい存在感にはなぜだか魅せられてしまう。

 

 自分の置かれた状況を把握しきれない主人公と同様の目線で映画を鑑賞する我々にとって、世界の混沌の写し鏡のような謎の男たち、中でも「嘆きの検察官」、ベネチオ・デルトロ扮するアレハンドロの言動はあまりにも生々しく、記憶にこびりつく存在感を放っている。

 主人公に優しく寄り添いつつ、過去の苦悩を漏らす彼の姿に親しみを覚えたかと思えば、人間離れした蛮行を淡々とこなす。超人的な行動力を持ちつつ、あまりにも人間的な彼の動向は、本作品の最も大きな見どころの一つだろう。

  

 異なる陣営の暗殺者がうごめき、残虐に殺し合う人間たちの織りなすあまりにも複雑すぎる世界を主人公とともに追いつつ、絶望的なまでに暗い過去を清算しようとするあるシカリオの行動とその帰結を目撃させる本作。

 観客である私たち「文明人」が、そして主人公が、一瞬理解したかに思えた人物の行う非人道的な行動を我々はどう見るべきであろうか。


『ボーダーライン』予告

映画 海を飛ぶ夢

二つの魂が見た生と死とは?

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 若き日の情熱を愛と旅に託していた青年は、ある晴れた日の故郷の海である光景に目を奪われる。

 それは海岸で髪をなびかせながら、瞳を閉じて物思いに耽る美しい女である。

 その光景に心奪われた彼は、気づけば高い崖から大海に飛び込んでいたのであった。

 深みがあるかに見えた海は引き潮であった。

 海底に身を打った彼は、五体の自由を奪われた生活を20年以上も重ね、やがては死を望むことになる。

 

 尊厳死を求めて絶望の日々を過ごす主人公ではあるが、彼の苦悩や彼の思慮深い言葉や、彼の身体的拘束と反比例するかのような想像力と言葉の世界に、多くの人々が、そして何よりも女性達の愛が集まる。

 本作品の中では彼を愛した女性たちの中でも、特に4人の女性たちの心情が極めて繊細に描かれる。彼の母親的な存在である義姉のマヌエラと、彼の尊厳死の権利を求めて戦う人権団体のジュネ、そして愛を求めてやまない衝動的なロサ。そして進行性の若年性認知症や失明を有する絶望から、彼の苦悩を最も理解し、かつ彼の豊かな心的内情に共鳴する美しい弁護士ローザ。

 

 尊厳死を求めて戦う主人公に対して国の制度や宗教など多くの障壁が立ちはだかる。しかし何にもまして彼を苦しませるのは、愛ゆえに彼の死を許さぬ兄、そして死を望む彼に対して静かに悲しみ続ける高齢の父であったかもしれない。あるいは彼と共に戦った、思慮深く志の高い職員にすら隠された、彼の死の望みに対する本質的な無理解かもしれない。

 しかし彼が愛し、かつ彼を愛したローザが、ともに尊厳死を約束した後に打たれたある直感、死の直前で彼女を引き止めたある感覚こそ、最も彼を絶望させるものはなかったのではないだろうか。

 本作品の死生観、そして誰よりも互いを深く理解しあう主人公とローザにすら横たわる死生観の相克をこそ描いた点にこそ、この作品にどんな他作品にも超えられぬ特別な価値が与えられていると思う。

 

 主人公が絶望の中で、その美しい想像力を羽ばたかせて綴った美しい詩の数々。彼の豊かな過去の記憶や、孤独の中でひっそりと綴った美しい文章を掘り起こした彼女は珍しいほどに彼を動揺させる。それは彼が身体の麻痺に苦しむ日々に心の奥底に隠していた最も高貴な神殿であったのかもしれない。

 しかし互いの苦悩を共有することでそれらの文章を見つめ直した二人は、絶望の中で光を摘み取るように、ともに美しい詩の数々を作品として残そうと試みる。

 互いに隠し持った愛情を芽吹かせつつ、詩的な言葉を重ねて編集されたその詩集は、彼らにとっての生命そのものである。

 

 詩集の出版後に互いの尊厳死を約束したローザは一度都会に戻り、満ち足りた気持ちでその本の出版を果たす。

 しかしふとした瞬間、彼らの生命であるその本の製造過程を工場で目にした彼女は、唐突に喜びを見失い、我を失ったかのような空虚な顔つきになってしまう。

 その瞬間に彼女が見つめていたもの、それは機械的で殺伐とした過程を経て詩集が製造され続ける機械運動の光景であった。

 

 一方の主人公が尊厳死を求めて都会に向かう際に恍惚と見る光景は極めて対照的である。親に叱られる少女、手を取り合って走る若い男女、後尾する動物、農作業をする老婆、すっかり風化した十字架の像、自転車を走らす青年、森、空、そして機械的に回る風力発電の光景である。

 

 それぞれに死を覚悟した人間が見る二つの光景。その光景に果てしない絶望を見たローザは死を拒み、渾身的な夫にしがみつく。そして主人公をかつてなく絶望させたのである。

 

 それは曇りなく生命を見つめた時に我々が見いだす二つの景色ではないか。

 我々の肉体、そして生命というのは自然法則の派生であって、我々の死後に向かう場所は機械的な虚無の世界であると見るか、あるいはその虚無にすら見えかねない世界にこそ、生命の奇跡と美、そして畏敬を見るか、という二つの世界観。

 限りない絶望を負った主人公ではあるが、彼が死を覚悟した後に世界に見たものとはなんだったのであろうか。

 

 美しい光景と言葉を通して彼の死生観を静かに、しかし緻密に描いた本作品は我々に生と死を再び見つめさせるであろう。

 


The Sea Inside (Mar adentro) [Oscar's Best Foreign Movie]

映画 ロブスター

 ちょっと渋みのあるファンタジーが観たいときにいいかも

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 自己のアイデンティティーに戸惑い、何かしらの権力に抑圧された若者が、何がしかのきっかけで自分の類稀なる素養に気づき、革命なり、世界的陰謀との戦いなりを導く人物になるような作品。近年10代の観客を中心に人気な近未来のデストピアものやファンタジー世界で多く見られる設定である。

 

 特に目立つのは優生学的な価値観を持つ社会に各個人が分別され、個性なく平和を維持する世界や、一部の特権階級の搾取によって隷属状態になった大多数の人間が疲弊した日常に苦しむ世界である。

 

 エネルギー溢れる若者たちは、ある年齢を節目に社会から言われるのである。

「あなたは単なる社会のパーツですよ」、と。そういった社会に帰属意識を持てぬ若者のフラストレーションを消化(昇華)させるこのような作品群が人気なのは大いに頷ける。

 

 しかし社会の価値観に順応し、日々を必死に生きる「大人」たちもまた、人生の様々な節目で自分を取り囲む環境に疑問や違和感を感じる。とは言っても、弓を片手に革命を起こしたり、伝説的な血筋に基づく魔法の力で諸悪の根源と戦うエネルギーはもはや残っていない。

 そんな私たちにも卑近な人生経験を投影した何かしら味わい深い近未来ものの作品はないものか?

 

 そんな需要がもしあったら本作品『ロブスター』はオススメかもしれない。

 あるいは高校を卒業するまで散々社会的脅迫とともに、成績や受験に追われながらも、急にあまりにも大きすぎる自由を差し出される大学一年生あたりにも何かしらしっくりくるような気もする。

 サークルやゼミやアルバイトを通して、いかに自分が充実しているか、孤独でないかを強迫観念のようにアピールし続ける人々。あるいは学問なり趣味なり、己だけの価値観に基づいて自主独立を目指しながらも、時々日常的な人と人との交流を心の底から求めしまう人々。

 目に見えない巨大な二つの勢力が日々せめぎ合い、その外にはあまりにも呑気で無関心な中立地帯が広がる。そんな環境に少しでも違和感があるならば誰でもこの作品を堪能できると思う。


映画『ロブスター』予告編

魯迅『狂人日記』と『阿Q正伝』

近代の悩める自我について

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 三十年ぶりに月光を眺めてから、突然に病理を深めていくある被害妄想狂の日記を描いた『狂人日記』で、終始表現される食人に対する嫌悪と恐怖。

 近代に至り、生命が1つの権威や宗教と共に共同体の中に溶け込んでいた時代は去り、入り乱れる新旧の価値観の中で、各々が即席の自我の獲得を課されることとなった時代。

 圧倒的な善として世界を闊歩した啓蒙思想の助けもあってか、従来の価値観は審問に伏され、悪徳として否定されることも珍しくないこの時代に、王政やキリスト教、そして儒教もまた、徹底的な打撃を受けた。

 

 儒教的な価値観の弊害を食人として理解すればすっきりと読めるかもしれないこの作品は、しかし近代人が誰もが持つに至った不安定な自我への恐怖、つまり実存的な恐怖として読み解くことはできないか。

 

 後天的に時代や環境から付与された思想なり価値観なり信仰なり、その総合の上に成り立つ我々の自我。これを育んだ近代化という時代的変遷のなかで、それを我が血肉のように重んじ、はたまた我が血肉のように傷つけられ、奪われ、食われはしまいか?己もまた他人の血肉を食った上で成りたった存在ではなかったか?このような、己の存在の所在に惑い、己の存在意義そのものに突き刺さる恐怖を、「食人」という野蛮な言葉で表現したのではないか。

 

 また一方の『阿Q正伝』で描かれる阿Qの下劣で滑稽な生き様、それは即席で強い自我を背負わされた民衆に見る近代の殺伐と、その中でもがく人間たちの精神を描いたように思えてならない。

 それは肥大化した自我やプライドに見合わぬ卑小な存在である一個人の、弱肉強食世界での悲しくもあり、可笑しくもある闘争である。

 

 しかし民衆の不安定な自我の滑稽さ、あるいは恐怖を描きつつ、生命そのものに本来あるべき、畏敬に価する何かを描くこと、そしてそのような生命が時代に翻弄され、無残に散っていくことに対する怒りを表現することも魯迅は忘れてはいないように思われる。

 それは阿Qが処刑される寸前に突然鋭敏に知覚される本質的な恐怖と、まさしく奪われようとする生命の、あまりにも生々しい呻きの言葉である。

 

 最後の最後まで下劣で、間抜けであった阿Qの生命は、「にぶくて鋭い、彼のいったことをすぐに咀嚼しただけでなく、彼の肉体以外のものまでも咀嚼しようと、いつまでも彼のあとにくっついてくる」民衆の残酷な視線を前に自我を剥ぎ取られ、叫んだのだ。「助けてくれ、…」と。

 その瞬間こそ、彼はその場に居あわせたあらゆる人々の中で、誰よりも真に人間ではなかったか。

 

 狂人日記での食人への恐怖よろしく、霊魂までもが咀嚼される恐怖に見舞われた阿Q。その死には何の栄誉も、意義もなく、人々の好奇心をすら満足させることなく、惨めに散っていった。

 

 時代を問わず、常にどこかで、日々新たに発され続ける彼の呻きの言葉は、儚い自我の強化に執心する現代人に鋭く突き刺さる。

映画 マジカルガール

激情と理性の国スペインで魔法使いはどう生きたか

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 美しいバルバラの体中に刻まれた傷。そして無垢な赤ちゃんを窓からほうり捨てる想像に、顔をくしゃくしゃにして笑う彼女から滲み出る狂気。

 かつて魔法を使った少女は、自らを制御する術なく、狂気に沈んだ人生を送ったであろうことがわかる。

 

 激情と理性が均衡を保つスペインで、とある理性は彼女を愛することで彼女を破滅から救い、とある理性は彼女を恐れ秩序に閉じこもることを望んだ。

 しかし彼女を愛する夫は、精神医学、安定剤、そして何よりも絶対的な主従関係をもって彼女を統制する術を知っている。

 彼女の激情に魅了され、飲み込まれる弱い理性は、人の心を失った狂気に転じる点も面白い。

 

 そんなバルバラが理性の支えを失い、砕ける鏡の前で自我を失いかけた時、マジカルガールの衣と杖を求める少女の父と出会うのである。

 死にゆく白血病の娘に、唯一実現してあげられる夢のために強盗を試みた父は、藁をも掴む勢いの弱り果てたバルバラと一夜を重ねる。

 彼が文学という、激情と理性の織り成す世界に親しんでいたこと、そして教師であったことはバルバラの目にどう映ったのであろうか。

 

 彼女との情事を餌に、恐喝をせざるを得ない父。そして絶対的な支えである主人を失うことのできないバルバラ。彼女が大金を得るために訪れるのは、悪魔のように明哲な、車椅子に乗ったサディストであった。

 

 かつての魔法使いが、死にゆく少女のために絶望的な苦痛に身を投じ、その苦痛によって、少女には何かしらの救いが与えられる。そんな美しく、味わい深い話になると思っていた。というよりなって欲しかった。

 

 しかしマジカルガールに変身した少女は、何よりも大切な父親との時間を重ねることもできず、本物の怪物を前に魔法を使うこともできず、白色灯の下に硬直して佇むのみであった。

 

 激情と理性が渦巻くスペイン。そして愛のために狂気に落ちていく人々。その世界での魔法の存在意義とはなんであったのであろうか。


映画『マジカル・ガール』予告編