映画 マイケルムーアの世界侵略のススメ
・あらすじ
第二次世界大戦以降、なかなか戦争に勝てない割に軍事費がとてつもない額になっているアメリカ。
それならアメリカ軍に代わって私(マイケル・ムーア)が代わりに他国を侵略して、資源の代わりにいろんなアイディアを盗んできます。
そんな無理やりな設定で各国を訪れては、アメリカよりもはるかに恵まれた制度を次々と紹介していくドキュメンタリー作品。
・マイケル・ムーアが盗んだ他国の制度(公式サイト情報+少しネタバレ)
テロや移民問題、EU関連のニュースで何かと暗い話題が目立つ西欧諸国ではあるが、彼らが常識として享受している制度はすさまじいほど恵まれている。
アメリカ人の目を通してこれらの常識を改めて紹介されると、彼らの豊かな生活に羨ましさが止まらない。
(以下主要な紹介国)
・イタリア 年間有給8週間+祝祭日+毎日2時間の昼休み休憩+etc
・フランス 低予算なのにシェフ付きの高級学校給食
・フィンランド 長時間の学習時間、宿題廃止+統一テストの廃止+世界でトップレベルの学力
・スロヴァニア(+20カ国以上) 大学の学費無料
・ドイツ 休日中の部下に上司が連絡を取るのは違法。終業後に部下にメールを送るのも禁止
・ポルトガル あらゆる麻薬の所持、使用を非犯罪化+麻薬使用率の激減
・ノルウェー ホテルみたいな刑務所+残虐な刑罰の一切を禁止+再犯率の激減。
・アイスランド 世界初の女性大統領を輩出+男女平等の徹底+
リーマンショック後に不正に関わった銀行家を全員収容+劇的経済復活
イタリアの年間8週間の有給+何かにつけてお休みがもらえまくる制度は別格だが、その他の紹介国も当たり前のように数週間分の有給が保証されている上、消化率は当然のようにほぼ100%である。
医療や教育の無償化に代表される優れた福祉制度も当たり前の存在。職場のストレスや長時間労働も徹底的に規制する。
彼らはなぜそこまで恵まれているのか。どうやってそんな制度を築き上げてきたのか。そんな疑問提示に応えるように、ヨーロッパの歴史や、これまで辿ってきた苦難の道のりをも紹介してくれる本作品。
そこで繰り返し示されるのは、権力や体制といかに向き合うべきか、という問いと、マイケル・ムーアの十八番のテーマである資本主義の負の側面である。
・権力の恐さを知ってるヨーロッパ
かつて絶対王政と教会権力によって支配されていたヨーロッパ。1789年のフランス革命と共に多くの血を流して自由を勝ち取った彼らは、あらゆる権力が流動的で、常に監視していなければ暴走する存在であることを、痛いほど知っているのかもしれない。
革命によって自ら近代世界、そして民主主義を勝ち取った彼らは常に体制を監視し、やたらに干渉する。
大学の学費を取ろうとしたら各国でデモが起きる。強力な独裁者は一人の青年の自殺をきっかけに追放される。女性の地位を落とせば経済も崩落する。
常に権力と向き合い、試行錯誤を繰り返し、歴史を振り返る彼らだからこそ、労働環境や福祉の圧倒的恩恵を維持できるのかもしれない。
お休みをもらいまくっているイタリアの年間の生産率は、フル稼働のアメリカ人や日本人の職場よりも高い。
・資本主義の恐さを知っているヨーロッパ
権力の恐さをさんざん学んだ彼らではあるが、近代と共にもたらされた資本主義経済との向き合い方を学ぶには多くの苦難があった。
19世紀以降、西欧各国の強いナショナリズムの形成を促した資本主義は、資源や植民地などの利権をめぐって、世界中で血みどろの戦争を繰り返させる原動力であり続けた。
そんな資本主義に反抗した人々は不安定な共産主義勢力を拡大させ、新たな独裁権力を誕生させる。
そういった共産主義への反動で、今度は資本家に支持されたファシズムの暴力が吹き荒れる。
そんなむちゃくちゃな混乱の中で世界大恐慌が起こり、もはや暴走は極限レベルに達する。第一次世界大戦、そして第二次世界大戦である。
ヨーロッパ全体が血にまみれた戦地となり、いくつもの村が壊滅し、莫大な数のマイノリティーが虐殺された。
そんな混沌を経験したヨーロッパは、資本主義の脅威を骨身にしみて学んだのだろう。
今日でも企業の不正に厳しく目を光らせ、労働環境を徹底的に改善する彼らは、資本主義による利潤追求が人間の生命を脅かすことを決して許さない。
そんなことを考えさせてくれる本作品。タイトルは少し過激だが、マイケルムーアの皮肉なユーモアを通じて世界を覗かせてくれる良質のドキュメンタリーである。
イーライ・ロス監督 映画 ノック・ノック
・あらすじ
LAの郊外の高級住宅。家族4人とわざとらしいほど幸せに暮らす主人公の父。
とある大雨の夜に訪ねてきた2人の美女を雨宿りさせた彼は一夜の快楽に身を堕としてしまう。
翌朝起きると、一夜を共にした2人は豹変し、狂気に満ちた行動を繰り返し始める。
彼女たちから逃れられぬ主人公はやがて破滅の道を辿っていく。
・残虐さだけじゃない、イーライ・ロス作品
毎回あまりにも残虐すぎる描写で世間を騒がせるイーライ・ロス監督ではあるが、巷に溢れるチープなエロ・グロ映画とは一線を画す作品を作る監督である。
彼が毎回作品で描くのは、いわゆる「文明」側に属している(と思い込んでる)人間が、興味本位なり、若気の至りなりで「野生」の世界に入って生き、自分の価値観では全く追いつかぬ混沌に触れ、やがては…、という展開。
本作も一夜の快楽に身を落とした彼は地獄を体験することになる。
・監督おなじみの世界観
えげつない食人描写を描いた前作、『グリーンインフェルノ』でも、あまりにも過激な描写の数々に観客を限界状態に追い込みつつ、同時に観客に重要な問いを投げかけてくるイーライ・ロス。
人間と動物の境界性はどこか、真の環境保護意識とはどのようなものであるか、「文明人」こそ真に野蛮な存在ではないか。
そんなことを考えさせては、観客側の「わかったつもり」をひっくり返すように、衝撃的な展開を持ってくる意地悪な手法は本作でも繰り返されることになる。
そんなイーライ・ロスが今回描くのは、理想的男性像(?)キアヌリーブス扮する建築家が、夜な夜な訪ねてきた2人の美女にめちゃくちゃにされる話である。
・可愛いワンちゃんと戯れるキアヌ・リーブス
なぜか本作では、ワンちゃんと戯れるキアヌのシーンがアンバランスに多い。
展開上特に意味はないのに映されるワンちゃんとキアヌのしつこい描写は、もしかしたら以前のキアヌ主演作『ジョン・ウィック』を文字っているのかもしれない。
(過去の殺し屋稼業から足を洗った元一流ヒットマンのキアヌが、ワンちゃんを殺されたことで殺人マシンに戻るガンアクション)
ワンちゃんについてはただの深読みかもしれないが、いたずら心溢れるイーライ・ロス監督の作品は、どんなに深刻なシーンでも常にどことないユーモアを感じさせてくれる描写を入れてくることが多い。そんなバランスもまた、彼の激しいエロ・グロ・ナンセンスな描写が苦手な観客を安心させてくるれるのかもしれない。
・野生、野蛮性と戯れる人間たちへの復讐
「物事は自分のデザインで決まる」と語る主人公は、建築家であり、「善き父」でもある。自他共に認める「いい人」の主人公は、なぜイーライ・ロスの残虐世界を経験しなければならなかったのか。
注目したいのは、家中に飾られている妻の作品。妙に古代的、呪術的なモニュメントが多く、繰り返し映される。明らかに男性器を模したものや、かつて大地に豊穣を祈願する際に作られた女性像みたいなものもある。そんなアーティストの妻と深く愛し合っており、家族と怪物ごっこをしては、間抜けに戯れている描写も無駄に長い。
彼にとって芸術的衝動世界や怪物性は、理性の下に管理されたものであり、鑑賞したり戯れたりする対象でしかなかったのかもしれない。
そんな理性的な「善き父」が、大雨の夜に訪ねてくる美女二人に、その理性を揺さぶられる。そして管理していたかに思えた混沌や衝動世界をナメていた主人公は、その脅威を骨身に染みるまで体験することになる。
見方によっては「男性嫌悪」にも「女性蔑視」にも捉えられかねない本作ではあるが、要は自分の知らない世界、あるいは自分のナメてる世界に無理解なままで入って行くと恐ろしいことになる、そんなメッセージを体験できる作品であることは間違いない。
映画作品の描く未知の世界を、画面を通して呑気に鑑賞できる観客。そんな観客の常識や「知っているつもり」な感覚を、過激な描写や一貫した疑問提示と共に揺さぶるイーライ・ロス監督。今後もぜひとも注目していきたい。
映画 神様メール
・あらすじ
ブリュッセルのアパートに住んでいる3人家族。いじわるなお父さんとおとなしいお母さんと暮らす娘のエア。
自宅でパソコンをいじって暮らすわがままなお父さんは世界を作った神様だった。
お父さんに嫌気がさしたエアは、神様の仕事道具にいたずらをして家出をする。
エアのいたずらは、世界中の人間メールを送って余命をばらすことだった。
余命を知った世界は大混乱に陥り、やがては…。
・意地悪な唯一神のパパ
暇に任せて世界に天災や事故を起こしたり、ケラケラ笑いながら人間を悩ませる普遍法則を造るお父さん。彼は世界を創造した絶対神、いわゆる旧訳の神である。
家父長制の主人として妻や娘に好き放題命令しては、ビールを飲みながらパソコンをいじって生活している唯一神の姿は宗教界、特にユダヤ教の人からかなり反発を受けるかもしれない。
と言ってもリアリティはあるのにシュールでな現実描写や、常にコメディとして観客のツボを付いてくる本作品。宗教や人生、生と死と言った重たいテーマを扱っているにもかかわらず、常に観客を笑わせながら予測不可能な展開に持っていく本作のバランス感覚には脱帽するばかりである。
・野球好きのお兄ちゃんイエス・キリスト
意地悪なお父さんと3人で暮らしているエアではあったが、実は家出をした兄がいるらしい。しかもその兄はイエス・キリストであった。
旧約聖書のユダヤ教にルーツを持つキリスト教。イエス自身ももとはユダヤ人であったが、ユダヤ教の厳格な戒律に異を唱え、新たな宗教を創造に至る。
そんな史実を意地悪なオヤジの家を飛び出たお兄さんとして描いている。
彼はすでに人間界で磔刑にされてしまったものの、夜な夜なエアとフランクに喋っては、エアにアドバイスをくれたりする。
・終末思想と神様メール
そんなイエスが当時ラディカル提唱していたのは「この世の終わり」——終末思想である。
現世的な繁栄を重んじる人々に対し、アンチテーゼとして「死」を想起させた彼の行動。それは娘のエアが人々に「余命」をバラしてしまう行動と非常に類似している。
旧訳世界や現世的価値観に対する反動、それが本作品では、意地悪なお父さんに反抗した兄と妹として描かれている。
・少女エアの新・新訳聖書と六人の使徒たち
意地悪なお父さんに散々いじめられ、DVまでされたエアは家出を決意する。
彼女はお兄ちゃんの集めた12人の使徒、+6人で、野球ができる18人になるという謎の目的意識を持って、人間世界で6人の使徒を探す。
エアは人間それぞれの持つ「心の音楽」を聞き分けることができ、彼らに夢(就寝時の)を見せることができる。あと少し魔法的なものも使える。
そんな能力と共に使徒を集め、新・新訳聖書創りに取り組む過程で出会う使徒たち。そして彼ら一人一人の人生や心の音楽に触れることになる。
己の余命を知った人々、そして人々に「死」を想起させたことで変わりつつある世界秩序。そんな世界で描かれる6人の使徒たちそれぞれの説話が、示唆に富んでいると同時にあまりにもシュール過ぎて爆笑を誘う。
・一神教と多神教
古代、周辺民族の圧迫に喘ぐヘブライの民が、シナイ山でであった一人の神と契約を交わしてより、後に到来する西洋文明は従来の多神教的な呪術、祭祀を社会から遠ざけ、一人の神のもたらすテーゼをもとに合理主義の土壌を築き上げてきた。
このキリスト教、そしてイスラム教の大元にあった旧約の神は、恐るべき復讐の神でもあった。
ヘブライ人の長きに渡るエジプトでの隷属状態を終わらせるために、エジプト人に対して凄まじい災禍をもたらしたこの神は、自らに契約を誓ったヘブライ人のバール(土着的農耕神)への崇拝をも当然許さず、バール崇拝をした者を皆殺しにもしている。
この、従来の多神教世界、土着信仰などを徹底的に抹殺する力強さを持ちながらも、どこか人間的な感情を覚えさせる神は、その姿を表現されずに伝承されてきたことで、より畏敬の念が増されてきたのかもしれない。
本作品の意地悪なお父さんの描写は、どこかしら罪悪感を覚えつつ、不思議なリアリティがある。
そのアンチテーゼとして「愛と許し」のキリスト教の誕生と、のちの西洋の教会権力の誕生をもって、西欧文明の歴史、文化、そして西欧人の精神はその圧倒的影響を受けて形成されている。
しかしその大元には、一神教の始祖としてのユダヤ教のテーゼが色濃く繁栄されていることは間違いない。
男性的一神教世界が抑圧した女性的多神教世界。そこから生まれた近現代社会や資本主義社会が行き詰まる昨今、どこかしら生きづらさを感じている人々は「死」を忘れ、現世的な責任やノルマに追われる。
そんな厳しい世界で感受性豊かな少女が、宗教を、そして世界を変革しにこの世に降り立ったのである。
復活した女神を前に世界はどう変わるのか。新たに訪れるシュールすぎる混沌とした世界に感動し、笑いつつ、「この世界ちょっとやばくね?」という予感が刺す。意地悪なお父さんは再び神の座に戻るために、洗濯機工場で扉を開けまくる。
今年度で一番笑って、一番泣いた最高級の傑作である。
映画 善き人のためのソナタ
・ヴィスラーの出会った二つの作品
東ドイツ国家保安省(シュタージ)の大尉ヴィスラー。
彼が監視することになる劇作家ドライマンとその恋人マリア。
彼らの情熱的な愛情の日々を盗聴するヴィスラーはやがて、自身の孤独な生活や、社会主義を利用して権力乱用を繰り返す高官、そして自身の乾いた精神を見つめるようになる。
そんな彼を決定的に変えてしまう2つの作品。それはブレヒトの詩とベートーヴェンの旋律であった。
・ベルトルト・ブレヒト 「マリー・Aの思い出」
ある日孤独を癒すために娼婦と一夜を過ごした後、ドライマンの部屋にこっそり入ったヴィスラーは一冊の本を盗む。それはブレヒトの詩集であった。
(以下字幕より)
9月のブルームーンの夜
スモモの木陰で、青ざめた恋人を抱きしめる
彼女は美しい夢だ
真夏の青空に雲が浮かんでいる
天の高みにある白い雲
見上げると
もうそこにはなかった
スモモの木陰で抱きしめた青ざめた恋人とは、西洋文学に繰り返し出現するセイレンである。高みを目指すものをおとしめ、魅了する普遍的存在と、彼も出会ってしまったのだ。
(以前セイレンについて書いたのでよければ読んでください)
見上げた際にもう失われてしまった、「天の高みにある白い雲」。それは情熱を知り、孤独を知ったヴィスラーが失ってしまった社会主義への信仰であろう。
・ベートーヴェン 「熱情ソナタ」
そんな彼にさらなる情熱の息吹が降りかかる。
それは政府に抑圧され、苦悩し、自殺した演出家が死の直前に送った、ベートーヴェンの情熱ソナタの楽譜である。
友人の死を嘆き、静かにピアノを奏でるドライマン。彼はマリアに語る。
「レーニンは情熱ソナタを批判した。
これを聴くと革命が達成できない。
この曲を聴いた者は、
本気で聴いた者は、悪人になれない」
かつて人類に理想郷をもたらすために、強固な秩序を必要とした思想は、苦悩と喜びの旋律を恐れ、同時に魅せられていたのである。
その旋律は理想郷を失った絶望と、微かに予感される希望を響かせてたように思えてならない。
・壁なき世界で
東ドイツ崩壊後の世界で、社会主義への信奉を失った理性と、圧倒的自由を前に表現手段を失った情熱はどのように出会い、何を生み出したのだろうか。
自由とともに反抗すべき対象、そして自我を失った二つの魂。
資本主義の息吹の下、入り乱れる価値観に惑う芸術家は、かつて彼を監視し、やがては彼を守るようになった一人の人間を見出すのだ。
ラストシーンでのヴィスラーの微かな微笑みに涙が止まらない。
小説 ジキル博士とハイド氏
各時代ごとに造られる怪物観
「怪物は境界線に存在する」という言葉がある。
我々人間は完璧に境界を異にした存在に対しては、それがいかに恐ろしい存在であっても怪物という言葉は使わない。
異質な存在であるにも関わらず、そこに人間的な何か、あるいはかつて人間であった時の何かを垣間見るからこそ、その存在は怪物なのである。
『ジキル博士とハイド氏』のハイド氏の怪物性についての描写は沢山あるがその中でも最も興味を持った部分は作品のクライマックスでもあるジーキル博士の陳述書の中にあった文章で、善と悪について述べられたものである。
ジーキルは後の研究で彼の考えを凌駕する人々の多元的人間観をも予感しつつ、人間が二元的な存在だという真理を悟る。
その二元性には様々な解釈が可能である。そこには当時の関心を集めていた進化と退化、男性と女性、イギリスとアイルランドなど様々な問題を当てはめて読むことができるだろう。
ここでは最も直接的な解釈、善悪の二元性として考えて見たい。
善と悪を二分しようとした結果ハイド氏を生み、それについて「善と悪の二大領域が、大多数の人間よりもはるかに深い溝で仕切られる結果となった。」と語っている。
つまりハイド氏は人格を分離した結果の純粋な悪の存在としての怪物なのである。
純粋な悪といってしまうと境界線上にいる怪物というより、悪魔的な別次元のものと考えられるかもしれないが、この作品の中では「すべての人間は善と悪の混合体」であり「エドワード・ハイドのみは、全人類のなかでただひとり純粋な悪」なのである。
だとすれば、ハイド氏に出会うものすべてが彼を奇形とみなし、嫌悪の情を起こさせる怪物的な存在であるのは、自分のなかにもその「悪」を持っているからだろう。
その「悪」はヴィクトリア朝では特に嫌悪されていた快楽や野蛮性のような本能的な行動をさすのかもしれない。
そう考えるとハイド氏の、絞首刑を免れるためにはジーキルに戻ったり、生への驚異的な執着を見せたり、といった行動はとても興味深い。
そもそも人間の本能的なあらゆる行動は、自己保存と種族保存のために身体に備わった必要不可欠な感覚である。イギリスの発達した文明とキリスト教的価値観のもとで、それをどんなに悪と呼び捨てようと、それは否定しがたく誰もが持っている。
そういった「悪」を当時のイギリスの社会秩序で抑圧することで、文明を維持するイギリス人の姿がジーキルなのであれば、生命に驚異的に執着するハイド氏の姿は、人間の抑圧された自然な機能の叫びであり、そういったものを怪物視する彼らこそが、他の文化圏の人々や人間以外の生命から見ればなにか不可解な生活を送る生物としての怪物といえなくもない。「善」の化身たるジーキルもまた、怪物なのである。
放浪好きで都会を嫌ったスティーブンスンの描くハイド氏はある意味、我々も含めた文明に生きる人間の不可解な生活へのアンチテーゼとしても解釈できるのではないだろうか。
映画 レヴェナント:蘇りし者
死に抗う二つの魂
開拓時代、大陸を覆う大自然がまだまだ人間にとっての圧倒的な脅威であった時代。入植者であるアメリカ人やフランス人、そして部族間抗争や、植民者達の破壊に怒る先住民たち。人間の理想や利害、欲望と憎しみが入り乱れながら多くの血が流された、建国時代のアメリカの荒涼とした大自然が舞台である。
粗野で力強い男たちが命を散らす世界を前に決して死を受け入れず、生命への驚異的な執着を見せる二人の男によって描き出される緻密な人間描写は、本作品の中でも最も重要な見所の一つだろう。
本作品で悲願のアカでミー主演男優賞を獲得したデカプリオの驚異的な演技を通して描かれる彼のサバイバル。心身ともに圧倒的絶望の中に落とされたにもかかわらず、彼を殺さず、行動させたものはなんだったのか?この問いこそ、この映画のミソであるとは思う。
が、しかし一方で、主人公グラスの宿敵であり、卑劣な行動を繰り返す悪役に徹するトム・ハーディー扮するフィッツジェラルドの人間臭さ、というより彼をこそしぶとく生かし続けた力、すなわち彼の生命観に強く印象付けられるものがあった。
フィッツジェラルドはかつてインディアンの襲撃に遭い、生きながらに頭皮を割かれる(一部の部族が、アメリカ人の先住民虐殺に対抗して行った)という壮絶な過去がある。トム・ハーディーならではの男気溢れる顔つきや屈強な体には不釣り合いな、禿げ散らかった頭髪は、見ていて非常に痛々しい。
しかし何よりも彼の人間性を印象付けるのが、作中で語られる彼の父の過去である。
神など信じなかった彼の父がサンサバの丘に狩りに行った際、コマンチ族の襲撃によって仲間と馬を失い、独り絶望と飢えによって死の危機に瀕したときのことである。荒野の真っただ中に一本だけ高く伸びた木に登り、彼の父は信仰に目覚めたという。果たしてその木に登り彼の父が見出したものは、一匹の肥えたリスであった。
「輝かしい栄光と崇高な慈悲に包まれながら、親父はそいつを撃ち殺して食ったのさ」。
闇夜に沈む森の中で火を焚き、仲間の青年に焼いた肉を渡しながら、フィッツジェラルドは父の過去を遠い目で語る。
彼の父が見出したこの神こそ、危機に瀕した彼を生かし、彼と主人公を決定的に対立させるものではないか。彼に目を覆うような卑劣な行動をさせる原動力となり、生命に執着させる、近代世界の大元となったあの神ではなかったか。
現代を生きる我々は、ともすると大自然の中に生活を持った先住民と家庭を築き、その自然を畏敬することで多くの知恵を得た寡黙な主人公よりも、生存のために必要とあれば何をしてでも生きようとし続けるフィッツジェラルドの姿に共感してしまう瞬間があるかもしれない。
また瀕死の主人公を見捨てようとするフィッツジェラルドに2度も命を救われ、彼と行動を共にする青年の引き裂かれる善意とその後の苦悩も、我々観客に多くの共感を与えるであろう。
しかし何よりも、主人公の圧倒的な絶望とその後の復活、そして主人公が達成しなければならなかった“ある”行動を終えた後に、遂には帰れるはずであった亡き妻の姿、そしてその姿が消えた後に向けられる主人公の目線が意味するもの、これらを通して訴えかけてくるこの作品のテーマを、是非とも味わい尽くしたい。
映画 エリジウム
強固な秩序に抗う強化外骨格
近代性、合理性を視覚的に映し出したシステマティックなロボットたち。
超富裕層の安逸な生活を支え、人口過剰や環境汚染問題に代表されるような、普遍的問題の解決を一部富裕層のみの救済に見出すデストピア世界。
人間性、そして生命価値の軽視を助長する秩序が、強固な機械とシステムに支えられている。
その秩序に抗いつつ、権力に踏みにじられた主人公がまとうのは、醜い強化外骨格。ガンと傷で弱り切った主人公が、近代的な剛力の一部をまとい、迫害者とロボットたちに立ち向かう。
初めて治安維持機動部隊の一体を倒す瞬間、粉々にくだけ散るその外殻のスローモーションは、人間性と野蛮性が、近代の圧迫に反乱を起こす第一歩であった。
しかし秩序の転換を試みる彼を脅かすもう一つの存在。それはもうひとりの反乱者分子であった。人間性や思想なしに、野蛮性だけで秩序の破壊を試みる暗殺者。彼らは時代を問わず、近代性と合理的秩序に抑圧されてきたもう一つの普遍的脅威である。
安逸な富裕層と超近代兵器を身にまとう野蛮な反乱者の2つを、貧しい装備で打ち破る主人公の勇姿に心奪われる。革命が欺瞞に陥らぬためには、この2つ同時に打ち倒すべきであったのだ。
彼は自らの命を犠牲に、強固な近代性が守るべきものを改変した。秩序は、システマティックなロボットたちは、全市民に開かれた。
歴史は繰り返される。かのフランス革命や共産革命の失敗と同じく、人類が理想郷を築くのは遠い未来、もしくは永遠に訪れぬ未来かもしれない。しかし彼らの抗いと、被迫害者たちの嘆きと喜び、そして子供たちへの救いと親の愛は、たとえ一瞬あっても限りなく人類を輝かす。